このレビューはネタバレを含みます
“白馬の王子さま”に求婚されることでプリンセスになれる、そんなお伽話がいかに脆く欺瞞に満ちているかを、容赦ないリアリズムで暴き出す。アノーラが、ロシアのオリガルヒの息子イヴァンと衝動的に結婚することで手に入れたかに見えた“プリンセス”の座。
しかし、その座を維持しようとする彼女の奮闘は、現代資本主義社会の冷徹な力学と、そこに巣食う人間のエゴによって無残に打ち砕かれる。
ショーンベイカー監督の作品は、社会の周縁で生きる人々をドキュメンタリータッチで捉えながらも、そこに温かな眼差しを注いできた。しかし、本作における「温かさ」は、過去作とはやや異なる。
「フロリダ・プロジェクト」のラストに見られた、現実からのファンタジックな逃避行のような“映画の魔法”は、本作では鳴りを潜め、アノーラが抱いていた甘い幻想という名のシャボン玉を冷徹な現実認識によって破裂させるのだ。
その破裂の瞬間、アノーラが見せる虚勢と諦念がない交ぜになった表情(マイキー・マディソンの演技は特筆に値する)は、彼女がこれまで自衛のために鈍麻させてきたであろう痛みや屈辱が生々しく噴出する様を観客に突きつける。イヴァンとの騒動を通して、自らが信じようとしていた「お伽話」がいかに都合の良い自己欺瞞であったか、そして富裕層にとって自分のような存在がいかに簡単に使い捨てられる駒でしかないかを痛感させられたアノーラ。
彼女がお伽話を盲信していた背景には、セックスワーカーとして生きる中で経験してきたであろう搾取や偏見、そしてそこから抜け出したいという切実な願いがあったはずだ。
しかし、その願いすら、より大きな権力構造の前では無力であるという現実が、イヴァンの母親やその取り巻きとの対峙によって、ブラックコメディの味付けと共に提示される。
彼女は流され、利用され、打ちのめされながらも、その都度生き延びるための必死の選択を、衝動的にかつ計算高く繰り返してきた。
彼女の行動は、一貫した主体性というより、むしろ極限状況における生存本能の発露に近い。だからこそ、終盤にイゴールが漏らす「君があの一族にならないで良かったよ」という言葉は、単なる同情や共感を超え、富裕層の歪んだ世界を知る者からの、アノーラが結果的にその泥沼から抜け出せたことへの安堵として響く。
冒頭のクラブの喧騒とは対照的な、ラストシーンの静謐さ。それは、単なる「祝福」や「新たなスタート」といった安易な希望の提示ではないだろう。
煌びやかな虚飾――結婚、富、地位――がすべて剥ぎ取られた後に残された無色透明な現実。そのがらんとした空間に立ち尽くすアノーラの姿は、解放感と同時に、先行きの見えない不安や、ある種の虚無感をも観客に感じさせる。ベイカー監督は、安易な救いやカタルシスを提供しない。
むしろ、お伽話の呪縛から解き放たれたアノーラが、これからどう生きていくのか、その厳しさと可能性の両方を冷静な、しかし人間の尊厳を見つめ続ける批評的な眼差しで捉えている。本作は、現代社会の残酷な格差構造をえぐり出しながら、幻想に別れを告げ、剥き出しの現実と対峙することの意味を問いかけてくる。