なかなか面白い作品だった。「実話を基にしている」そうだが、映画の最後で、
【本作は実話に着想を得て作られている。
描かれる人間模様は創作である。】
と表記される。公式HPを見ると、「エゴン・シーレの失われていた絵が、若い工員の家で見つかった実話を基にしている」と書かれているので、その外枠だけが事実ということだろう。
しかし、この事実の部分だけでもなかなかワクワクさせられる。
本作は、なかなかメインの物語が進まないのだが、ようやくエゴン・シーレのものと思しき絵の話がオークション会社の元に届いたシーンが印象的だった。有能な競売人であるアンドレの元で研修生として働くオロールが手紙を開封すると、エゲルマン弁護士からのもので、「エゴン・シーレの絵を鑑定してほしい」というものだった。それを聞いた瞬間、アンドレはオロールに「すぐに連絡してくれ」と言う。本物だと思って気が急いたのではない。逆だ。100%贋作だと判断したのである。
本作の舞台がいつなのか分からないが、エゴン・シーレの絵が実際に見つかったのは2000年代初頭だそうで、それぐらいが物語の舞台なのではないかと思う。で、エゴン・シーレの絵は、その時点で30年ほど、エゴン・シーレの絵は市場に出ていない。そりゃあ「贋作」だと判断するのも当然だろう。
さらに、もちろん偏見込みの判断ではあるが、「夜勤労働者の家から見つかった」という情報も、アンドレに疑念を抱かせた。何故そんな家に、エゴン・シーレの絵があるというのだろうか? そんなわけでアンドレは、まだ現物の絵を見ていないという弁護士に、「一度絵を見に行った方がいい」と、恐らく断りの文句のつもりで返事をした。
しかしその後、実際に絵を見に行った弁護士からさらに連絡が来る。見つかったという絵はエゴン・シーレの『ひまわり』で、ゴッホの『ひまわり』をエゴン・シーレ流に解釈して
描いた傑作の1つとされている作品だ。この絵は、第二次世界大戦のどさくさに紛れて紛失してしまい、1939年以降、所有者のコレクションごと行方不明になっているという事実だけが知られている。まさに幻の作品というわけだ。
だからアンドレは、「そんな絵がまさか出てくるはずがない」と疑っていたのである。そんな絵が実際に出てきたのだから、そりゃあ興奮もするだろう。持ち主の自宅を訪れたアンドレ(と元妻ベルティナ。同業者である)は、「民家の壁に本物のエゴン・シーレが飾られている」というあり得ない状況に思わず笑ってしまい、弁護士から「贋作だとしても失礼ですよ」と窘められていた。査定額を聞かれ、アンドレは「最低でも1200万ユーロ」と答える。今日のレートでは、約20億円だそうだ。
しかし、そんな絵が何故普通の家庭の家にあったのか? ここには、なかなか面白い事情がある。この家に住んでいるのは、マルタンという夜勤労働者とその母親なのだが、彼らは「家主が死ぬまで一緒に暮らす」という条件で家を買ったのだ。つまり、家の所有権は引き渡すが、その家に住む権利は保持したまま、というわけだ。家を買った母親はもちろん、元の持ち主がもっと早く亡くなると想定して家を買ったはずだが、思いの外長生きし、「去年98歳で亡くなった。私たちには長い時間だった」と言っていた。
そしてエゴン・シーレの絵を持っていたのは、その亡くなった元の持ち主なのである。
じゃあその元の持ち主は何故エゴン・シーレの絵を持っていたのかについては、是非映画を観てほしい。戦争を背景にした数奇な運命の果てにこの絵は現れたのだ。
また、「最低でも1200万ユーロがマルタン一家の手に!?」と思うかもしれないが、しかしそうはならない。この辺りも、その絵の来歴に関係するのでここでは触れないが、マルタンの振る舞いも含め(まあこれが事実かどうかは不明だが)、なかなか興味深い展開だなと思う。
さて、本作はそんな「亡霊のように現れたエゴン・シーレの絵」を中心に据えた作品であり、その物語の中心にいるのがアンドレと元妻ベルティナである(2人は10年前に離婚したそうだが、同業者ということもあるのだろう、今も仲良くしている)。そしてその一方で本作では、アンドレの下で働く研修生オロールの話も結構描かれる。しかしこのオロール、ある時点まで物語の中で完全に”浮いている”のである。「オロールの話、要る?」と感じてしまうほど、全然メインの物語に絡んでこないのだ。
メインの物語に絡んでこない割に、オロールの描写はとても多い。アンドレと喧嘩したり、父親と喧嘩したり、オークションで争った相手と喧嘩したりと、とにかく喧嘩ばかりしてるし、さらにその度に「えっ!?」というような嘘をつきまくる。なかなか謎のキャラクターで、しかもメインの物語に全然絡んでこないから、「こいつは一体何なんだ?」と思いながら観ていた。
実際は、後半(かなりラスト付近だが)のある時点で、「なるほど、そんな風にこの物語に関わってくるのね」と感じさせるような展開になっていく。のだけど、それにしても、よくもまあ最後の最後までほぼ関わらない人物をここまでふんだんに描いたものだと思う。まあ、オロール、なかなか興味深い存在だったから、個人的にはいて良かったキャラクターなんだけど、一般的にはどう判断されるんだろう。
さて、興味深い存在だったのはアンドレもである。アンドレもは全体的には「いけ好かない奴」みたいな感じで描かれる。オロールも、そんな上司の存在にイライラして喧嘩してしまうのだ。しかし彼は、純粋に「素晴らしい作品」に出会いたいと考えているようだ。
そのことが分かる会話が冒頭に出てきた。オロールと車に乗っている時に、「娼婦になれるか?」と割と真面目な顔で聞くのだが、その発言にはこんな感覚がある。競売人というのは、売るためなら何でもしなければならない。じゃないと他社に負けるからだ。もちろん、「逸品」に出会えた時はインディー・ジョーンズのような気分だが、残り99%は客引きだ。ただ、そんな客引きの商品でも売らないとやっていけないのだから、「お前は娼婦になれるか?」というわけだ。
セクハラ・パワハラ的な問題があることは当然認識しているが、そういうことは一旦無視して考えた時、この「娼婦になれるか?」という発言は、「いつか出会えるかもしれない逸品のために、残りのクソみたいな商品を売る覚悟はあるか?」という問いかけであり、これはアンドレ自身の覚悟を表してもいるのだと思う。
また同じようなことは、映画のラストでも理解できる。アンドレはある大きな決断をするのだが、やはりそれは「『逸品』と出会いたい」という情熱ゆえのものなのだと思う。オロールは、時計やクラシックカーなど成金的な趣味に興じるアンドレを「いけ好かない」と感じているわけだが、本質的には彼は、純粋に「心躍る逸品」を探し続けているというわけだ。
そして、そんな彼が偶然にもエゴン・シーレの幻の作品を引き当てた、というところもまた、本作の物語を面白く感じさせる要素になっていると言えるだろう。
さて最後に。本作はちょっと面白い感じで物語が進んでいく。説明が難しいのだが、「途中途中をすっ飛ばしながら物語を進めている」のだ。例えば、こんな場面がある。マルタンの友人がコンビニ(みたいなところ)で『感じる美術』という雑誌を手に取り、店主に「これいくら?」と尋ねるシーンだ。この友人は同じ工場で働く仕事仲間であり、マルタンの家にもよく遊びに来ていた。恐らく、壁に掛かっていた絵も見ていたはずだ。
そしてその次のシーンが、アンドレの元に弁護士から手紙が届くという展開である。つまり、「友人がアンドレに雑誌を見せ、『あの絵って有名な画家の絵なんじゃない?』という話になり、色々あって弁護士に話してみることにした」みたいな部分がまるっと抜けているのである。
まあ、そういう展開を挟む物語は他にもいくらでもあるが、本作はその頻度がかなり高いように感じられた。「さほど重要ではないし、観客が想像可能な部分」は大胆にカットしながら、オロールのような本筋と関係するんだか分からない人物の物語を入れ込むなど、物語の理屈からちょっと外れているような感じもあって、その点もまた、観客を惹きつける要素として機能しているといえるかもしれない。
特段何が起こるというわけではないが、物語の中で最も嘘くさい「エゴン・シーレの失われた絵が見つかった」という部分が紛れもない事実なので、そのことに支えられて物語全体のリアリティも強固になっている感じがする。「ここがメチャクチャ良い!」みたいな部分があるわけではないのだが、なかなか良くできた作品に感じられた。