このレビューはネタバレを含みます
「自由」一見最高の言葉に思えるが、自由とはかなり使い勝手が難しいもので、ときに人を狂わせる。自由は人を解放するが、解放された分伴う責任はすべて当人が背負わなければならない。そして、自由の使い方がわからないと搾取されうる。これはまさに資本主義の構造そのものであり、労働者や低所得者が都合よく経営者や富裕層から搾取される世の中の縮図を表すようである。この作品では、カップルという対等な関係が特に望ましいとされる共同体において、その搾取がなされる。
サーカスで芸人をしているフランツは、宝くじを買うのが日々の楽しみだったが、ある日くじが高額当選する。その日から彼はブルジョアの人々との交流の場に招かれ、そこで出会ったオイゲンに恋をして付き合い始める。フランツにとってはバラ色の日々だったが、オイゲンは彼を金としてしか見ていなかった…。
「マナーはお金では買えない」それは愛もそう。フランツはオイゲンにやることなすこと指摘される。服を乱暴に脱ぎ捨てるのも、スープを飲むときにパンを細かくちぎって入れるのも、みっともない、マナーがなっていないと叱責される。でもこういった行動はもう体に染み付いてしまっているのだろう。呆れた表情で指摘するオイゲンに対して、フランツはいつもポカンとした顔をして何がなんだかわからないとでも言いたげなのだ。
光と影が交差するシーンが何度か見られる。オイゲンの部屋のベッドに降り注ぐチカチカと点滅する怪しい光や、モロッコ旅行のとき、強い日差しと日よけによってもたらされた光と影でできたしま模様に彼らは包まれる。前者は曖昧な光であるが、後者ははっきりと光と影の境目がわかる。それぞれの思いの違いも含めてアンバランスなこのカップルを照らす光さえも真っ直ぐではない。
また、車内における光と影もフランツがひとりで車に乗っているとき、または運転席と助手席で2人で座っているとき、それはオイゲンとの場合もマックスとの場合も、眩しい光で反射して顔が見えなくなったり、または夜のトンネルを通って顔が暗闇に埋もれるなど、とにかく一時的に顔が見えなくなるのだ。2人でいる場合は互いに腹の中で思っていることが見え隠れするようで、1人でいるフランツの感情の吐露を一部始終はっきり見せまいという意図を感じられる。
オイゲンとマックス、フランツで座る3人掛けの椅子も印象的である。フランツがオイゲンに別れ話を持ちかけるとき、空虚な建物を歩いているが、なぜかマックスも現れる。フランツとオイゲンが落ちあって歩き出すと、彼らを待ち構えるようにマックスが壁によりかかっている。2人と自然に合流し、彼らもマックスの存在に違和感を覚えていないようである。フランツとオイゲンという2人だけの関係であるはずが、その裏にはマックスやオイゲンの家族などが絡んでいるのは明らかである。フランツは彼らおよび社会に呑み込まれている。
フランツの悪気のなさと純粋さは簡単に傷つけられてしまう。自分の抱えている孤独を癒やす方法も見つからず、素直な彼はこの世に絶望し、誰も手を差し伸べることはない。冒頭の遊園地のシーンを彷彿とさせるお気楽な音楽に乗せて残酷な結末を見せることが、理不尽な世の中に対しての精一杯の皮肉なのだと感じた。