このレビューはネタバレを含みます
舞台挨拶中継付き試写にて鑑賞
序盤は塚原あゆ子監督の手腕が発揮された軽快な手さばき、坂元裕二の「日常あるあるに人生訓を絡めた、(全然リアルではないが)共感を呼ぶ台詞回し」をすっかりモノにした松たか子のコメディエンヌぶりで面白く見れていた(2.5次元の舞台裏など本編よりワクワクする撮影がされていて、監督に合ってるのはこちらではないか)。
しかしまだタイムリープ始めて早い時点で、どうにも「?」が付きまとう。
「現在の」松たか子が、「15年前の」松村北斗に接触しようとして未来を変えようとドタバタする。
普通ここって、まず「本当の15年前の出会いはこうでした」を見せて、その後に「自身も15年前の姿に戻った松たか子が過去を変えようとする」ことで初めて意味を成すんじゃないのか。
いくらなんでも「ミルフィーユ」の一言以外に説明が無さすぎる15年前との接点と、その日が未来に影響を及ぼすという説得力が伝わってこず、松が犬に囲まれるあたりですでに何をしようとしているのか混乱。
いや「現在の松のまま別人のフリをし、過去の松との接触を避けながら北斗を誘導する」でもいいんだけど、どっちにしろ「元のルート」を示した上で「ルート変更」を目標にしないと、サッカーかバスケかもわからないままボールを投げたり蹴ったり、ルールのない勝手なゲームを延々見せられてる気分に。
松(現在)の部屋にタイムリープの構造を模してメモを貼って見せてるんだけど、それが全然観客への便利な説明になっていない、というよりそれだけでは果たせていない説明が多過ぎる。
「なんかタイムリープものってこんな感じでしょ。それより俺の描く『日常あるある』のコミカルで切ない台詞の方が凄いよね」という傲慢な匂いさえ嗅いでしまい、正に終盤「タイムトラベルよりよっぽどこの日常の方が奇跡だよ」という台詞が出てきて流石に静かに切れてしまった。
それは「タイムトラベルという奇跡」をしっかり描き切った後に出て来るべき台詞なのに、そっちは本気でやろうとさえしていない。
松があっさりタイムリープを受け入れ一人で奮闘するだけでリアリティラインもめちゃくちゃで、「日常あるある」すら実はちゃんと描けてない。 日常のリアルとSFの虚構のつなぎ目が脆いから(舞台挨拶での松たか子の発言は、この脚本の弱さに気づいてのこととしか思えず)、この世界の日常の度合いがよくわからないから、台詞だけが浮いてるような気がする。この塩梅でイケると思ったのだろうが、それは「適当に作った部分も呑み込んでくれるだろう」という打算ありきなので、たとえ一般大衆に受けたとしても不誠実には変わりない。
前半から雰囲気だけでタイムリープを描こうとした傲慢が後半どんどん破綻をきたして行って、まず「あの時、北斗の側は実はこう思っていました」で再び描かれる「現在」が、序盤で描かれたリアルなケンカ描写と矛盾してない?
そこは「最初に描いた場面を視点を変えて見せる」から伏線回収として成立するのに、「序盤で見た事ない場面」を入れて「実はこの時こう思ってたんです」と言われても全然気持ちよくないしスッキリしない。
円環構造だと思ってたら、この入り口とあの出口繋がってないよ? ここどこ? って気持ち悪くなった。『ロスト・ハイウェイ』か。
あと、周囲の泣きじゃくるお客さんみんなに聞いて回りたかったけど、ラストどういうこと? 「この君に会えないから僕はこのまま死ぬ未来を選ぶ」って言ってるのに、「その松たか子と未来の松たか子別人じゃん!」
ここまで2時間寄り添い応援し続けてた松たか子が最後のタイムリープ終えた後は不在のままエンドロール。
ここも、実はそこまでのタイムリープを丁寧に見せていたら「最後に今まで描いてきた時間軸の主人公がいなくなる」というちょっと意表をついた趣きになるのだろうけど、そうはなっていないので「辻褄合わなくなったから開き直ってそのまま」としか感じられなかった。
普段、タイムリープやSF映画を見ていて、「面白いなぁ」と思って映画の感想を検索したら「ツッコミどころだらけwww」とか言われてて「え? どこが?」ってなるくらい細かい整合性を放ってしまう人間なのですが、それでもこの映画の没入できなさは看過できず。
『映画ドラえもん』から『バック・トゥ・ザ・フューチャー』から何から、いかに世間に溢れるタイムリープSFが「『ここから変化するスタートラインの開示』『そこからいかに過去の世界線にバレないように何をどう変化させようとしているのかのルールの共有』『そしてこのように変わり、主人公はここに至りましたよというゴールライン』」を順序立てて見せてくれていることか、みんなありがとう!って叫びたい気分。
この3つがすべて無い映画だったから。
もちろん、「設定出来た上で」それらを出し引きさせるテクニックはあると思う。だが本作、明らかにそれらの設定を曖昧にぼかしたまま進めていることは後半の混迷から明らかだ。
なんでそんな事になってしまったのかといえば、結局作り手が台詞で吐露したように「タイムトラベルなんかよりこの日常の方が奇跡」という価値観のもと、SFに真剣に取り組んでいないからだろう。
むしろ「タイムトラベルに真剣に取り組むことで、今ここにある日常の奇跡が感じられる」、それがSFの良さなんですけどね。
周囲の観客の涙までバカにしているのかと言えばそういう訳ではなくて、松村北斗くんにキュンとしてエモに浸る場合には、そういう整合性はどうでもよくなるかも知れない。
それくらい、ともかく北斗の繊細な「受け」の芝居が巧く(日常と非日常双方を担わなくてはいけない松たか子が損してるともいえる))、そんな彼が魅せる「ファーストキス」の眩しさは、それだけで本作をスクリーンで観る価値あるものにはしている。俺もファンだったらヤバかった。
ジャンル映画を愛するものとしてはマジで悪口が止まらないけど、撮影、音楽、役者、監督、一流どころが一流の仕事をして見栄えはよくしている。
それゆえに、そのネームバリューにおもねったのか逆らえなかったのか、坂元裕二の脚本をまるで詰めることの出来なかった制作体制にハッキリ否を突き付けたいです。