ガンビー教授

乱のガンビー教授のレビュー・感想・評価

(1985年製作の映画)
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知っての通り、黒澤明という人の映画は「過剰」である。

セリフや演技、メイクに衣装、美術、セット、演出、すべてが「過剰」なのだけど、それが白黒というフィルターを通すと中和されバランスが取れていた、というのは僕の家族が言っていたことで、カラーになるとそのバランスが崩れてしまった、ということも言い添えていた。それは、確かにそういう見方もできる。

しかし、4Kデジタル修復によっていっそうカラーでビビッドに目の前に展開する、いかにも過剰な「乱」の姿は、ものすごく痛切な感情を呼び起こした。狂気にも似た何か。並外れた畸形的な事態を描こうとしているのに、それが「過剰」でいけない理由はどこにもない。プライベート・ライアンのノルマンディー上陸がまさしく過剰でなければならなかったように、過剰さが胸を打つことがあるんだ、と劇場で噛み締めた。

まずオープニングクレジット。黒澤明の映画では常に何かが、それは背景かもしれないし被写体かもしれないが……なにかが必ず動いている、ということが多い。それが、絵画のように鮮やかな色遣いで沈黙している。これが不穏だ。黒澤明の映画では動かないもののほうが不穏に映るのかもしれない。この映画では城全体を捉えたショットがどれも合成なのだが、それすら不穏さ、不気味さを際立てるのに貢献していると感じられるぐらいだ。

色遣いも綺麗といえば綺麗なのだが、どうにも毒々しい。塚本晋也監督の「野火」ほどではないが、原色との対比によって、普段見慣れているはずの野山の緑までが空恐ろしい不穏さを醸し出している。夏の光景のようだが、寒々しい。

赤い「乱」という文字の格好いいこと!

そして物語の不穏さが極に達したときまさしく「乱」が起きる。「乱」の極み。それはかつての黒澤映画が描いてみせたような痛快な活劇ではない。それは乱だからだ。人が惑い、死に、乱れに乱れ、狂っていく。そのさまを映し出す手つきは、まさしく痛烈に過剰だった。
ガンビー教授

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