デニロ

クルージングのデニロのネタバレレビュー・内容・結末

クルージング(1980年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

1979年製作。原作ジェラルド・ウォーカー。脚色監督ウィリアム・フリードキン。

1977年夏。国鉄の周遊券で四国を旅した。まだ橋も架かっていなかったので、行きは宇高連絡船、帰りは宇和島辺りから船で広島県のどこかに付いた記憶があるんだけどよく分からない。素九鬼子の「旅の重さ」「パーマネント・ブルー」の夏の四国を見たかったのか、田宮虎彦の「足摺岬」を見たかったのか、あるいはその頃読み耽っていた大江健三郎を感じたかったのか、山本コウタローとウィークエンドが歌った「岬めぐり」を気取りたかったのか、『祭りの準備』の四万十川を観たかったのか・・・・・。今更感傷に浸るでもないけれど、わたしのおもい人が18年暮らしたという高知を見たかったのでした。

で、そんな青年のセンチメンタル・ジャーニーをぶち壊したのが最終日の宇和島の港と、国鉄大阪駅の深夜の待合室での出来事。港のベンチで夕方の出航まで時間をどう潰そうかと佇んでいたら中年の男に声を掛けられる。旅行者かい、などと言う他愛のない会話から徐々に異様な雰囲気になって来て、嫁が妊娠していて実家に帰っている云々で付き合ってくれとか訳の分からぬことを言い募りホテルに誘われる。無論、逃げるように立ち去った。その後の記憶は定かでないけれど、どうやらちゃんと船に乗ったらしく手にしていた8ミリカメラで、ランボーの詩の如く海に溶けていく夕陽を撮影したことを覚えている。/僕は20歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない。/などと、ポール・ニザンの言葉のひとつも呟いていたかもしれない。

こころの中は這う這うの体で逃げ出した気分で、広島から岡山に乗り継いで夜遅く大阪駅に着く。始発の東海道線で帰京しようと待合室でザックを抱えて眠りに付こうとしていたところに、初老の男がおもむろに、一緒に旅館で休みませんか、と関西訛りで声を掛けて来た。この時のいや~な感じ、消そうとしてもなかなか消えない。どうなってるんだあ西日本は!とそんな風に思って、それから大阪も四国も暫らく行く気にならなかった。その大阪のおっさん、わたしが憤るのを横目にすごすごと立ち去って行った。ゴメンやで、なんてことは言わなかった。

夏休み明け、この嫌な感じを話して忘れ去ろうと友人に話したら、で、どうなったんだよ、おしまいが曖昧だなどと茶化されて、一層嫌な感じになったのです。

え、わたしはルキノ・ヴィスコンティが寵愛したヘルムート・バーガーやビョルン・アンドレセンタイプの美形なの?と完全に間違った方向へ行きかかったところを救ってくれたのは、こころない友人のその言葉であるのは確かなのですが。

さて、本作を1981年の封切時に新宿で観ているんだけど、あまりいい記憶はなかった。わたしの気のせいなのか、黒い革ジャンの男が何人も映画館のロビーにいたようなそんな記憶がある。今回、観直したんだけど、初めて観る感があった。こんなにグロかったっけ、と思ってしまった。かなりいい加減な描写だったらしく、関係諸団体から抗議の声が殺到していたと聞く。まあそうだろうな。あの、男だらけの出会い系の空間は確かに観ちゃいられない。絡み合い縺れ合い官能に打ち震え歓喜の雄叫びを上げる。いくら何でも見境なしでとっかえひっかえしないだろうと思うのだが。

その乱痴気騒ぎを観ながら、この男どもの中には、ヘルムート・バーガーやビョルン・アンドレセンのような美形はひとりもいなくて、性的指向が同性を求めていても個別の嗜好はまた違うのだという当たり前のことに気が付いて、わたしを誘った男たちはわたしをヘルムート・バーガーやビョルン・アンドレセンとして認識したんじゃなかったんだと理解する。

物語は、ある青年が自らの性的指向が同性愛であるということに嫌悪しているんだけど、やはり性的興奮を得たくなって男を誘ってしまって、でも、いざふたりきりで事に及ぼうとするとそんな自分を嫌悪して、俺がこうなったのもすべてお前のせいだと、その嫌悪感を相手に押し付けて次々に殺してしまう。やるべきことをやるまでだ、とでもいうように。

その連続殺人事件の担当警部から捜査員として呼ばれるのが下っ端警官アル・パチーノ。なんとなればゲイの溜まり場に同好の士として潜入し犯人の目星を付けろと厳命される。え、何で、他にもいい人いるでしょ、自分はゲイではありませんよ。そんなことはどうでもいい。殺された男どもはお前に感じが似てるんだ。ゲイ地帯は狭いから徘徊していれば向こうから寄ってくる。任務を遂行したら刑事として迎え入れる。さて、とここでアル・パチーノはかんがえる。

恋人/カレン・アレンは父親にアル・パチーノとの関係を咎められている。彼女の住むアパートメントの規模からするとええとこのお嬢さんらしい。そんな彼女に引け目を感じているのか彼女から部屋の合鍵を持たされても、自分で開けて入ることには躊躇いがある。だから、この警部からの打診はチャンスだ。自分を少しは大きく見せられる。

というわけで任務を引き受け、拳銃もバッジも外し住居も変えるのだけれど、ゲイの生活などチンプンカンプンなので右往左往する。この辺りの混乱ぶりは躊躇うことなく笑える箇所だ。否、笑っていいんだろうか。性のグラデーション、ジェンダーグラデーションといわれる時代、固定観念や偏見を打ち棄てようとする時代なのだから、そこはそれなりに敬意を表するべきなのかもしれない。でも、ゲイが身に付けているバンダナの色にはそれぞれ意味があっって、売りだとか、口だとか、聖水プレイだとかと説明されたら、やっぱり笑ってしまいそうだ。

笑ってしまうと言えば、警察署で、容疑者が弁護士を呼べ、というと、カウボーイハットとブリーフ一丁のマッチョな巨漢黒人が現れておもむろにビンタを喰らわす。何?この人。アメリカの警察にはこんなのが常駐してるんだろうか。他の映画では観たこともないので、無論そんなのは当たり前のことだけど、フリードキン監督もどうかしておかしくなってる。

カレン・アレンにも任務のことを言えずにひとり苦しみ、揚げ句の果てに、ハードな任務の影響なのか或いは…、カレン・アレンに最近わたしを抱こうとしないのね、と問い詰められる始末。警部に、わたしの任じゃないと願い出るが、がっかりさせるな、お前だけが頼りだと、受け入れてくれない。警部も、上司の本部長に、民主党大会までに解決しなかったら交代させると、引導を渡されているのだ。救いになったのが引っ越した先の隣室に住むゲイの若者。彼からいろいろと教わるのだけど、それが後々のアル・パチーノの生活に影を落としていく。

色々と錯綜するのだけど、アル・パチーノは犯人に目星をつけ見事犯人を逮捕する。警部からは感謝され、刑事課に歓迎する、と労われる。アル・パチーノはその足で、カレン・アレンの部屋に赴く。躊躇うことなく合鍵を使い彼女の不在の部屋に入る。で、そこで終わるのかと思っていると。

ゲイ地帯のアパートでで殺人が起こる。殺されたのはアル・パチーノの隣人のあの青年だ。すぐに駆け付ける警部。警官の報告から、同居の男は2、3日行方知れず、痴情の縺れだと報告を受ける。続けて警官がこのアパートの住人の名前を読み上げる。その中にアル・パチーノの潜入捜査時の偽名を耳にして、瞬時に思う、なんてこった!、と。みいら取りがみいらになってやがる・・・・。

アル・パチーノは帰宅したカレン・アレンに言う。すべて終わった。もう元通りだよ、そう言いながらシャワーを浴び鏡に向かい髭を剃る。そしてじっと鏡に映る自分の顔を見つめる。♬化粧なんて どうでもいいと思ってきたけれど/今夜、死んでも いいから きれいになりたい/こんなことなら あいつを捨てなきゃよかったと/最後の最後に あんたに 思われたい♬(化粧/歌詞:中島みゆき)果たしてアル・パチーノは自身の性的指向に気付いているのだろうか。

・・・・果たして、1977年のあの夜のわたしは、アル・パチーノのような表情で鏡を覗いていたのだろうか。それは、大人の秘密ですわ。

シネマート新宿 サディズムとマゾヒズム渦巻く 男だけの<聖域>で、彼は何を見たのか にて
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