a

ファンタジアのaのネタバレレビュー・内容・結末

ファンタジア(1940年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

・まず最初に、本作での個人的満点シーンは、3曲目の冒頭です。古代の地球にクローズアップをしていくまでの手描き宇宙と銀河の応酬で、声を上げて喜んでしまいました。手描きで宇宙が回想されるような映画は今まで観たことがない&この先も絶対に観られないし、それも『白雪姫』(1937)から伝わる(本作は1940年公開)、マルチプレーン技法(『白雪姫』にも書いた通り、プレートを上下左右に重ね合わせることで、まるでとびだす絵本のような立体感覚を得られる技法。ディズニーが生み出したものであり、それまで絵をパラパラ漫画のようにしか動かすことのできなかったアニメーションに「奥行き」の概念を初めて与えた)によって、超望遠で遠くの銀河が何個も迫ってくる場面は、もう本当に、こういうものこそ映画として観ないで如何様にする!といった、まさに映画でしか表現できない(しかも、この頃の映画限定でしょうね)、大きな喜びがありました。

・本作はそういった、もうこれは二度と観られないんだろうな、といった映像体験があまりに溢れており、終始大興奮なのです。その要因は大きく二つあって、まず一つ目は、1930~40年の時代感覚では、1800年代の尾を引き摺る形で、まだまだ「絵本」や「絵画」という媒体が、ちゃんと時事的かつ芸術的な媒体として隆盛を誇っていた時代でもあって、そしてその感覚が、本作や『白雪姫』(1937)では、かなり大きく見られ、これが(以後の映画とは決定的に異なる)「動く絵」としての映画へと落とし込まれているところです。

・『白雪姫』(1937)では、絵のタッチに徹底的な「アングロ・ジャポネスク・スタイル」(日本の江戸で発達していた浮世絵のタッチと、西洋の水彩画を掛け合わせたもの)を採用していますが、これによって、最初から最後まで、どの作品に比しても圧倒的に「絵本」的で、さらに言えば、「絵から受ける印象」そのものに恐ろしくフィーチャーしている(つまり、本作の「絵」を描く時に「細部までよく見られる」ことを前提として描いている)というのも、19世紀のアートがはっきりと絵画と対応していたことの表れでもあるのでした。その手間暇のかかりようは、85年以上経ち、デジタル処理で何もかも生み出せるようになった今でも、明らかなものとして理解できるのです。

・その、芸術としての絵画が映画に対応した『白雪姫』という作品に、さらに音楽(オーケストラ)の芸術性を掛け合わせて、突きつめて人々の「印象」にフォーカスしてきたのが、端的に言えば本作についての理解そのものと言えるのだと思います(なので、本作の小ネタはないです)。こんなに信頼できるアニメーションスタジオは、ウォルト・ディズニー・カンパニー以外に存在するのでしょうか。

・本作においては、オーケストラ音楽から受ける「印象」が、そのまま映像に波及する形で、終始物語が展開されます。映像や活版印刷が生み出される(活字が登場する)よりよほど前から、オーケストラ音楽は、非常に原始的な「物語」を体感するための媒体でした。「本」自体がここ2~300年の新参者ですし、特に、映像をはっきりと「物語」として出せるようになったのはまさに『白雪姫』以降のことで、それまでの「物語」とは、重奏的な音楽による音色と、ほぼ対応していたのです。その時代において、鑑賞者は音楽という物語から、自身が受ける「印象」を、そのものとして重視していました(フィクションの世界自体、それしかありませんでした)。

・つまり本作は、これまで音楽に対して途方もない解釈の数々を重ねてきた先人たちを土台に、「手描きアニメーション」という革命によって、動く「絵」として、先人たちに裏付けされた、極めて重奏的な「物語」を初めて描いて見せたよ、といった感じで、大変に文化的価値の高い作品となっているのです!本作を観ていて、あまりの音楽に対する複雑な解釈の応酬に、途中涙が止まりませんでした。

・『白雪姫』での「絵画」に対する恐ろしいまでの造詣の深さについても言えるのですが、現代において、このような作品は、端的に言ってもう二度と作れないのです。なぜかと言うと、産まれてから毎日「オーケストラ」や「絵本」に没頭していたような人間は、明らかに今はもう世界に一人もいませんが、この時代は逆にそれしかないので、産まれてから死ぬまで「オーケストラ」のことしか考えていないような人間が、当時ごまんといたのです。よって、たとえば本作のように「オーケストラ」の音楽解釈を広げる映画を作ろうとしても、文化的な素養と集団母数があまりに違いすぎるので、本作を超える「オーケストラ」映画は、作りたくても作りようがないのです(『プリンセスと魔法のキス』(2009)でさえ、ルネッサンス期を終えて解散させた手描きアニメーションのスタッフを再結成させるのに、とんでもない時間と労力を要しました。いわんや『白雪姫』のような絵本世界は、まさに時代が生み出した、唯一無二の極北でしょう)。

・さて、二つ目ですが、それは本作が、音楽解釈という物語の応酬を通じて、(ここ100年くらいの映画の文法とはかけ離れて)現実世界とファンタジー世界の境界線を、アニメーションによって超えようとするこ試みに終始していることです。この試みは、まさに当時議論が沸騰していたものでもあったようです。

・それは、『白雪姫』(1937)が(また白雪姫かよ!と思うかもしれませんが、しかし白雪姫は、調べるほど、今後100年の映画表現を占うような奇跡的な作品だったのです)、あまりに「一人の女性としての物語」を完璧な形で描いたために、その「人物の物語」の強力さに対して、「これはアニメーションの自由な可能性を狭めるものだ」、「アニメーションは、いつもの引力の法則や常識や実現性云々にも縛られない。アニメーションはこの世で唯一、真に『自由な』芸術表現の手段なのだ」といった世評にさらされることとなりました。絵を描く(落書きのようなイメージ)という原始的な自由さを、『白雪姫』は捨ててしまい、一人の人物に呼応する表現に特化してしまっているのだと思われていたのです。

・この批判が当時のアメリカで議論されることとなり、それへのアンサーとして作られたという側面が、本作には多分に内在しているのです。本作において、音楽から波及した物語たちは、どれも音楽という文法には従えど、極めて自由に飛び回ります。古代の地球や人が登場したりと、ある程度事実には立脚していますが、本作では最初から最後まで、そのリアルさを文字通り崩すように徹底して、映像の数々が展開されていくのです。極め付けは、壇上にミッキーの影がひょこっと現れることで、本作がどこまでが「ミッキー的」なのかすら曖昧なままでしたし、途中は音楽の波形に話しかけ、波形がカラフルに光りながら呼応するなども、まさにリアルとの境目が宙ぶらりんになってきて、大変に面白いです。

・これは一見、アニメーションとして整序がなされていない印象を受けます。しかし、音楽を聴いたり、日々の中で少し想像をして、フィクションの世界で遊ぶ私たちにとっては、本作で行われているリアリティラインとは、極めて直感的で、かつ知覚的にはほぼ「正確」と言ってもいいものがあるように思えるのです。これと対照的なのは『白雪姫』で、彼女は架空の世界を生きる「別人」の物語であり、解釈の余地はこちら側から全面的に『白雪姫』に対して差し出すものでした。

・さて、この2作品を受けて、先の議論はどちらに傾くかと言えば、それは圧倒的に『白雪姫』の方でした。それは、20世紀が「(唯一)神と権威の否定」という一大テーマを有していた時代でもあり、そこでは、今まで限定されていた唯一の「物語(聖書)」を否定し、神の代わりに個々人が「物語」を宿していい、またそれを広めるべきだ、とされた、個人主義と反権威(反民族)主義、そして原始的な自由主義思想を持つ大きな価値観が、数百年の時を経て勃興したのです(これを「ポスト・モダン」と呼びます)。この時代において、当時『白雪姫』が「人」の物語として登場したこと、そして説得力のインパクトは、あまりに「ポスト・モダン」的で、絶大な影響力を持ったのです。以降、映画とは「人の物語」として認知されるようになり、そこには必ず「登場人物」がいて、「起承転結」があって、「脚本」があって、極め付けにはアニメ毎に「作風」があって…という形で、この100年間、あらゆる映画は、映画独特の「物語」性を帯びることになったのでした。一方『ファンタジア』は興行収入が振るわず、以降ディズニー自身からも、本作のようなコンセプトを宿した映画は、滅多に出ないものとなってしまったのです。

・しかし、原始において、アニメーションとは、果たして最初から、「人」の「物語」を映すものであったのでしょうか。絵を描くこととは、はるかに自由で、絵画の時代はむしろ、人の物語とは全くかけ離れた、極めて柔軟で断続的・爆発的な表現こそが絵画の真骨頂とされていたのでないでしょうか。ピカソの時代になると、もはや「作風」すら持っていませんでしたが、絵のタッチがアニメや漫画毎に固定されるという不文律は、現代において特に根強いです。何も起承転結の存在せず、花畑が咲き誇っている「だけ」の映画が存在しても良いはずです。そのような「ポスト・モダン」の問題提起を煮詰めて、「コミック」と「映画」と「現実」と「AI」を、まさに『ファンタジア』のように、作風やタッチの垣根を超えて堂々と横断したのが、『スパイダーバース』(2018,2023)シリーズでした(監督は「常に『ファンタジア』を意識した」と豪語しています)。『スパイダーバース』シリーズは『白雪姫』以来の表現世界に、次なる革命をもたらしたと言われています(し、そう思います)が、特にコミックや現実、そしてAIの間を、起承転結や物語を抜きに突き破るように横断する姿は、まさに『ファンタジア』で提起した構造そっくりそのままです。

・85年前には音楽解釈を通じてしか羽ばたけなかった表現が、今ではありとあらゆるメディアを貫いて、とんでもない場所へと飛躍していったのです。『スパイダーバース』は現在進行形で映画界に影響を与えており、『THE FIRST SLAM DUNK』(2022)はそのファンタジア的構造を取り入れた結果、瞬く間に邦画史に残る一作となったのでした。

・総評。以上の通り、『ファンタジア』が映画界に与えた影響というのも、また絶大であり、それは現在になって、さらに進化した「ポスト・ポスト・モダン」(誤字ではないですよ)という枠組みの原初作品として、急速に見直されているのです。ファンタジアと白雪姫は、実は対になる作品でしたが、一番すごいのは、これを両作とも3年のスパンでプロデュースしてしまったウォルトさんでしょう。両作とも、なんて素晴らしい作品なのでしょうか。ディズニー作品を見ていて、最近はさらに未知と映像の驚きに毎作満ちており、楽しくて仕方がないです。ディズニー最高!!!!!!!!!!!
a

a