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或る夜ふたたびのニューランドのレビュー・感想・評価

或る夜ふたたび(1956年製作の映画)
3.8
☑️『或る夜ふたたび』及び『朧夜の女』▶️▶️
日常⋅社会⋅世界の全てを洩れなく掴みきる宮島のカメラの恐るべき完成度と強固な深み、環境⋅個性による孤独な魂同士の夫婦の日常の闇と冷気を掴みだす長谷部の本。これは(初稿は10年後か)後年の傑作『忍ぶ川』の本の原型とも言える。総体としての五所的癖はあるが、やはり驚嘆に値する惹き付けられずはいられない作である。
家屋ばかりでなく家屋間の狭いスペースまで入念に作り上げた美術もすごいが、俯瞰めや仰角ローめのパースペクティブを多く取り込んで、気づかれないくらいの広角で、冷たく暗め硬質に奥や左右まで完全に、せせこましいがそれがどこまでも人間の市井に繋がってるような世界を捉え込んだ、‘天皇’宮島のカメラ。退きばかりでなく顔のCUも強度⋅拮抗力は変わらない。寄って行ったり⋅廻り追いしたり、立ち座りに併せて上下はしても、これ見よがしのカメラワークは押さえ込み、90°や45°⋅寄り等のカッティングは内輪で小さく完結せず、世界のあらゆる連鎖に繋がる懐ろがある。芥川の音楽も、日本の市井に半分被り⋅半分ずれるような弦の響く洋楽めでリードしてゆく。そして終盤地上世界に閉じられ締められていた世界は、バックの絶妙不定広大な朝焼けのニュアンスの変移の時空の止めどなさに届く。
大学出も要領や人付き合いに不器用でくすぶるに甘んじてる40前の夫と、旅館の仲居をやってて人気もあった10は若いが、プロポーズに夫が呆れる位にスンナリ応じ、どうみても貧しくみすぼらしい夫婦生活に「幸せ」を連発し、そこに嘘はない表情に輝いてる妻。夫の失業、押し付けられた相手が嫌で東京に出てる学生の病身の恋人と⋅を秘めて家出して居候始めた夫の姪、生活費の為嘗て勤めてた旅館の住込みに一旦戻る妻、が重なってゆく。そして妻の失踪、孤児で天涯孤独の筈の彼女を訪ね来る⋅許嫁の息子を心配しての育ての親(代わり)の出現、なんとかまわってた小世界に、明るく温かく見えた妻への、裏に秘めた冷酷さを感知してたと告げる、姪や妻の同僚(その決して悪意はなくとも、繋がりの根を欠いた関係の表出)。一転、世界も感覚も、不安⋅畏れに支配される夫。狂ったように捜しまわる。
ところが何日も経ち、疲れ寝込んで起きると、何もなかったかのように傍らに妻がいる。妊娠を知らさず済むよう(変な気を使い)⋅堕胎入院していた事、客としての出逢いから、うわべだけの冷たい世を生きて来た中、無知な面からとはいえ真底温かく 裏表ない夫からの接触が、どんなに生に素直に向き直させてくれたか、打ち明けるか⋅以前の会話からの繋がりで分かってくる。責める夫からというよりも、そこまでさらけ出した身の置場の本質の不安も呼び覚まし⋅家を飛び出る。再び闇雲に捜す夫。列車への身投げ事故が事態を更に混乱させ、妻ではないと分かっても放心でレールの土手に上がってく2人。あわや跳ねられるを免れ、我と行く手認識を取り戻す。
熊井夫人が、長谷部の『忍ぶ川』の本を、ヒロインのバックに『サテリコン』的な血の赤い池が隠れ見えてる、みたいな事を当時言ってたが、本作を刈り込み⋅強めたものがそうなのだろう。
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次いで観た、先の作品は全くの初見だが、こちらも前回観たのは40年くらい前か、21Cになってからは初めての『朧夜~』。充実したトーキー初期の見映え作の印象が残ってた。実際、1広間のスケール⋅また隣接や対応の異空間の連関⋅背景書割りや隙間から見え交通手段、等溝口かと思わせる位だし、名優らの存分⋅それ以上に染み込む演技と風情の掛け合い、は思う存分の腕の振るい、それも若く止まるを知らないような、は大した見ものだ。しかし、内的な共通点が、20年を経て(両作を跨ぐ俳優も)、嫌でも目につくくらいに似たものがある。ひとつは、原作に頼らないオリジナルという事。2つ目は、共同体の軋みをテーマにしてて、本作は古くからの下町の商人街の、自分を犠牲にしてもの義理や身内への祈りが、少しずつ綻んでゆく姿、20年後の作は戦後⋅新社会再生も不全を抱えて、冷たい突き放しも普通になっての、個とパートナーの⋅外圧から縮こまり⋅懸命最善の健気と空虚を描き、3つ目は、共に意にそぐわない妊娠が巻き起こす、波乱をかなりズルズル描き引き摺ってる展開の取り留めない流れだ。
横への移動⋅パンが色んな場や見方で似たのが繋がり連なり、縦の移動は挟まり⋅頻度を同列に高めてゆく。上下移動や、ティルト⋅パンかき回しも入り、縦の図や俯瞰めの奥まで存在の光ってる配置や美術、細かい寄りの連ねや⋅各者押さえ⋅寄り対応様々とふと貫く縦退き図や全図の挟みの一体感。個々のカットは、寄り退き⋅各と、其々が屹立的で滑らかさを欠くのだが、まぁ、若気のいたり的。
「とうさん(にいさん)」「ねえさん(キヨ)」「かあちゃん(トク)」と好きに呼びあい呼応する中心の3俳優の掛け合い。「当て付けかい」「バカ」「どうせバカだよ」/「父なし子には。神様が下さったと思って。子を持った事のない人には、可愛さわからない」「自分の子だろ」「いや、他人の子でも」「任せるよ」「偉いよ」打てば響き合う。それは表の共同体の補填⋅補完の張りへを表し、一方、原因も結果も秘めるを受けてく、悲痛な若い2人。「名乗り出る。責任が」「皆への義理と母親の嘆きを大事に。お前が出世を願って、俺の子というを受け⋅死んでった事も。一生内にしまって生きるんだ」ドラマのバランスを壊し延ばし敷き詰める。
東京の老舗の店の職人群と、飲食⋅酒享楽街の重なった区域の、1人息子埃付かず大事にして、夫破産早逝後、料理屋の女中をして育てときた、他はメチャメチャ前向き⋅明るい「かあちゃん」の期待に反し、息子はバーの女と真面目に対してて子どもが出来る。「かあちゃん」の「にいさん(とうさん)」がいつもの町内先頭煽てられの線か、その女と旧知で⋅自分のとして引き取るを、女遊びの落ち着き点⋅苦労もさせて来た、子出来ないのが心残りの、後妻(「ねえさん」)を説得すも、出産前に急病死する女。
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