netfilms

別離のnetfilmsのレビュー・感想・評価

別離(2011年製作の映画)
4.1
 イスラム教の厳格な社会は日本とは違って離婚が少ないと考えるのは早計である。イランにおける離婚率はここ数10年で急増しており、2000年の約5万組から2010年には約15万組に達した。これはおよそ3倍のペースで増え続けており、社会問題として深刻化している。妻シミン(レイラ・ハタミ)と夫ナデル(ペイマン・モアディ)は結婚して14年、11歳になる娘テルメー(サリナ・ファルハディ)とナデルの父の4人暮らしだが既に夫ナデルと妻シミンの関係は破綻を迎えている。関係の冷え切った夫婦と、その2人の関係を取り持とうと娘は涙ぐましい努力をする。娘の将来を案じたシミンは国外移住を計画し、1年半かけて許可を得たものの、ナデルの父がアルツハイマー病を患ったことが大きな誤算となる。介護の必要な父を残して国を出ることはできないと主張するナデルと、たとえ離婚してでも国外移住を希望するシミンは対立。話し合いは裁判所に持ち込まれるが、離婚は認めても娘の国外移住は認めないと、ナデルが譲らなかったため、協議は物別れに。これを機にシミンは、しばらく実家で過ごすこととなる。シミンが実家に帰ったことで、ナデルはお手伝いを雇う必要に迫られる。そこで、家の掃除と父の介護のために、ラジエー(サレー・バヤト)という女性を雇う。母親の不在を埋めるためにお金で雇った家政婦の女性が、やがてあっと驚く家族の不和に関わってくる。

 映画の脚本が真に見事なのは、家族の再生と崩壊の物語に、まったく別の角度から突如、別のレイヤーを物語の構造に斜めから入れている点である。夫と妻の不和や娘の関係修復のための涙ぐましい努力だけでは、所詮一つの家族の物語からは逸脱しない。だからこそファルハディは多少強引ではあるが、父親の介護のために人を雇った雇い主と労働者の間にあっと驚くような不和を仕掛ける。ある日、ナデルとテルメーが帰宅するとラジエーの姿はなく、ベッドに手を縛りつけられた父が倒れ、気絶しているところを発見。ラジエーはほどなくして戻ってくるが、頭に血が上ったナデルは事情も聞かず、彼女を手荒く追い出す。その晩、ラジエーが病院に入院したことを知ったナデルは、シミンと一緒に様子を見に行き、彼女が流産したことを聞かされる。これにより、ナデルは19週目の胎児を殺した“殺人罪”で告訴されてしまう。ここに来て主人公である夫ナデルは容疑者となり、家族の崩壊への可能性は一気に高まる。映画は実にシリアスなサスペンスの様相を呈し、そこで繰り広げられる強烈な言葉のボクシングが真に緊迫した場面を醸造する。ここで重要なのは誰がどこで「嘘」を付き、どんな「名誉」や「尊厳」を傷つけられたかである。前作同様に登場人物たちが軽はずみでついた嘘が相手側の逆鱗に触れ、簡単には覆せないところまでこじれていく。

 夫婦の離婚、介護や格差社会、信仰や倫理に関わる立場の相違、果ては司法の在り方まであえてイスラムだけに限定される問題ではなく、我々の身近で起きてもおかしくない問題を扱うことでアスガー・ファルハディの映画はイランという国境を悠々と越えていく。しかしながらイラン映画らしい厳格なイスラム教の教えとその矛盾を提示する些細なディテイルの演出が本当に素晴らしい。例えば家政婦が粗相をした父親の服を着替えさせてもいいのか電話で確認を取る場面やナデルがテルメーのチップ払いを返してもらうように命令する場面などイランの生活に根ざした特異な場面を強調することで、イランという国の持つ問題を浮き彫りにする。クライマックスはまさにイラン映画らしい宗教観に彩られた衝撃的な場面が展開する。イスラムの人にとって「嘘」というのは何よりも重い罪であり、「嘘」で取り繕った言葉を発した瞬間に、自分の「名誉」や「尊厳」さえも傷つけてしまうのである。ラストのテルメーの涙は一体何を意味するのか?一体どちらを選択したのか?アスガー・ファルハディはあえて観客にそれを提示せず、観客一人一人に考えさせようとするのである。カメラのスタイルは前作以上に『ロゼッタ』スタイルで、ドキュメンタリー・タッチの手持ちカメラの臨場感が極めて重厚な脚本と絡み合う。
netfilms

netfilms