真田ピロシキ

ひろしまの真田ピロシキのレビュー・感想・評価

ひろしま(1953年製作の映画)
4.0
明日から長崎で原水爆禁止世界大会に3日参加するので、その心構えとして鑑賞。当然ながら今朝の記念式典も見ていた。岸田文雄のまるで心に響かない空文句の後に湯崎広島県知事がもっともらしいようで薄っぺらい核抑止論を諫めたスピーチを述べ、その最中に岸田の顔を映していたのが、今では大本営発表局となりさがったNHKのせめてもの矜持に感じた。

本作は戦後8年を経て公開され、被爆した子供の手記を原作とし、多数の広島市民がエキストラとして参加して衣装や小道具は現存してた戦時中のものを使用されているなど、当事者としての迫真性を極めて高められている。ドキュメンタリー的な手触りは特定の主人公と呼べる人物は置かれず、次々にフォーカスが当たって死に生きていく構成で、物語として捉えるには把握する間もなく人物が入れ替わるために受け身で見ていてはたちまちに映画を見失う。パワフルなキャラクターが引き込み引っ張る『はだしのゲン』などとは正反対。

その代わりに昭和20年8月の広島に投げ出された感覚は先に述べた再現への高いこだわりから絶大で、原爆資料館に足を運んだのと同じような体験をできると思われる。投下直後の地獄絵図は正直に言うと皮膚が爛れたような描写は技術的若しくは表現の制約かでなくてもっと酷かったのではと思い、彷徨う人たちの様子も統制が取れた動きのように見えてあまり感じるものがなかったが、病院に移ってからはケロイドの生々しさや呻き声、やっと会えても死んでいる家族の姿など自分の想像の範囲内に映画が入るようになった。基本的に市民目線の話だが、呼びつけた科学者の意見を耳にしても聖戦がどうとか言ってるパープリン皇軍の姿を挟んだのは原作にした手記には恐らくないであろう脚色で作り手の意志を感じさせ、今の学術会議を骨抜きにしようとする政府連中を連想させられる。

原爆投下時よりも実はその後の方が大事なのだと自分には感じられた。開幕が昭和27年の中学校で、クラスには被爆してない生徒もいて原爆症の生徒の話を「原爆に甘えている」と冷やかす奴もいる。これは学校内に限った話ではなく、町でも原爆症の人達は見せ物かそうでなければそんなものはなかったかのようにひっそりと生きることを強いられている。そして警察予備隊ができて、町工場では朝鮮戦争のための砲弾を作る。これを見て思ったのは日本人の忘れっぽさ。正確に言うと忘れたさ。今だってそうだ。震災と原発事故は10年で禊が済んだとでも言うかのように晴れて原発再稼働に舵を取った。コロナに至っては終わってもいないのに終わったことにしている。自民や維新の悪行三昧も統一教会も忘れればきっと上手くいくというおかしなマインドに支配されてる。こんな支配者層に都合の良い臣民なんてなかなかいないだろう。そんな国民性でまだ80年近くもギリギリ軍国主義が復活してないのはこの敗戦のダメージだけは流石に大きすぎて当事者が黙らなかったからに違いない。こういう映画をお約束のように見ることに実効性があるのかと疑問を抱いていた時期もあったが、当事者がいなくなる以上こうした形で「忘れるな!」と伝えていくしかない。胡座を描いてると奴らは『はだしのゲン』のように抹殺を図る。今の世代の人間が忘れず知ることを心がけて奴らに抗う。