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サテリコンのkaomatsuのレビュー・感想・評価

サテリコン(1969年製作の映画)
4.5
ストーリー展開や人物相関の把握、作者が言わんとしていることなど、一つひとつに頭を働かせるのが苦手で、何も考えずにただポカーンと、感じるままに映画に向き合いたいという、頭がカラッポな私にとっては、フェデリコ・フェリーニの映画はまさにうってつけ。私の好きなホドロフスキーやクストリッツァ、寺山修司でさえ、その複層する因果関係やストーリー性、作品のもつ重い思想性などがまどろっこしく感じることがあるなか、彼らに多大な影響を与えたフェリーニは、やっぱりすごい。その、潔く思想性やストーリーをバッサリ切り捨て、単純化されたフレスコ画のような断片的な映像がもたらす、一瞬一瞬の画の迫力は異様にすさまじく、何というか、直感的に惹き付けられる何かがある。この『サテリコン』はまさにそんな、自分の本能をダイレクトに刺激する、猥雑でギラギラした、それでいて仏教的な「侘び・さび」の無常感が漂う、摩訶不思議なフェリーニ流の古代ローマ一大絵巻だ。原作となるペトロニウスの「サテュリコン」を新解釈し、善も悪もなく、健常者と身体障害者の区別もない、いわばモラルがない時代のローマを、フェリーニ独自のイマジネーションで映像化しているのだが、道徳のない人間社会というのは、こうだったかもしれないなと思わせるだけの、ある種強引な説得力が、この作品にはある。

「役者は演技ではなく顔で選ぶ」というフェリーニの要請により、多くの素人さんや一般人がこの映画に出演しているが、トゥルマリキオという成金奴隷の配役には、顔にインパクトがあったからというだけの理由で、フェリーニの知人であるレストランの店主が選ばれたそうだ(DVDジャケットに映る二人の顔のうち、右側のおじさんです)。演技の未経験者がいきなり、横暴で男色の成金奴隷を演じさせられ、プライドに関わる恥ずかしい思いをしたらしいが、さもありなん。この作品中、フェリーニの飽くなき表現欲求の“犠牲”になった一般人は、どれほどいたことだろう。だがそのおかげで、出てくるわ出てくるわ、いろんな登場人物の特徴的な顔・顔・顔。「顔」の映画といえるかもしれない。

アルフレッド・ヒッチコックと同様、現場ロケーション主義ではなく、スタジオのセットを意図的に使うため、チープではあるが、セット特有の異様な緊張感を醸し出し、それがフェリーニ作品の魅力となっている。その魅力に取り憑かれたおかげで、もしイタリア旅行に行く機会があれば、絶対にチネチッタに行こうと決めている。この作品を足掛け10回は観ているが、1990年前後の東京国際映画祭で、字幕なしでの上映を渋谷で観たときは、余計な情報が目に入らないぶん、その酒池肉林の絵巻をスクリーンいっぱい、心ゆくまで堪能することができた。
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