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フェリーニのローマのkaomatsuのレビュー・感想・評価

フェリーニのローマ(1972年製作の映画)
4.0
『サテリコン』のレビューでも同様のことを書いたが、1970年代のフェリーニ映画の特徴は、思想性や人物相関、ストーリーによる因果関係など、一般的な映画ならば絶対に不可欠な要素をバッサリ切り捨て、フレスコ画のような映像をサブリミナル的に展開することによる、一瞬一瞬のインパクトや残像感にある。そこには特に深い意味はないため、私のように取扱説明書を全く読まず、事前学習よりも、とにかく見て触って感じて覚えないとわからないような右脳人間にはツボに入りやすく、常に予習や事前学習をし、論理的思考をめぐらし、頭で理解してから事に臨むような左脳人間のほうが難解に感じるのかも…と考えたりもする。無論、どちらが良い悪いの話ではない。

『フェリー二のアマルコルド』では、アントニオーニやタルコフスキー、アンゲロプロスの一連の作品を書いているトニーノ・グエッラが共同で脚本を担当したこともあって、この時期のフェリーニにしてはストーリー性の明快な作品となったが、その1本前に撮った本作は、ストーリーの完全放棄と、主人公の不在(一応、語り部はいます)、映像やシークエンスの断片化などを極端に押し進めた結果こうなったという、ある意味フェリーニ作品中最もシンプルな作品。その場面展開の脈絡のなさは、ルイス・ブニュエル監督の『自由の幻想』と双璧をなしているが、リレー形式で登場人物がバトンタッチする『自由の~』よりも、個人的にはブツ切れ感があるように思う。

この映画の中で描かれる、それぞれの「ローマ」は、現実とフェリーニのイマジネーションが混じった、混沌とした「ローマ」であり、おかしなほどデフォルメされているため、リアルなローマのドキュメンタリーかと思って観ると、とんでもない肩透かしを食らうことになる。だが、それぞれのシークエンスを観て、やはりすごいなと感じるのは、フェリーニ作品全般にも言えるのだが、大げさで独り善がりなイメージを羅列して映像化した、いわば“虚”の世界ばかりを観せられるのに、観終った後に感じる何かが、普遍的な“リアル”を伴っていること。「極端なデフォルメこそが現実を映し出す」という類まれなる作家性こそが、フェリーニの大きな魅力なのだと思う。
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