レインウォッチャー

沈黙のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

沈黙(1962年製作の映画)
4.5
言わぬが墓。

少年ユーハンと若く美しい母アンナ、その姉エステルの3人は旅の途中だったが、エステルの体調が悪化したため異国の街に宿をとる。部屋で療養する姉、街へ彷徨い出る妹。束の間の滞在のうちに、姉妹を隔てる確執が徐々に顕になる。

ベルイマン「神の沈黙」三部作の〆と位置付けられ(本人は否定)、タイトルもずばり『沈黙』なのだけれど、前作『冬の光』までとは明らかに異質かつネクスト次元すぎる作品。

すくなくともダイレクトに神や信仰がどうのこうの、とは語らせておらず、描かれるのは徹底した「(ディス)コミュニケーション力学」とでも呼びたくなる緻密なニガ味エグ味のグラデーションである。
もちろんそれを拡張させて「答えてくれない神」を問うものと捉える観方もできるだろうけれど、わざわざそんなことをしなくても十分に濃密で腑に寒気が走る、激・サディスティック映像快楽が詰まっている。

タイトルに応えるように、台詞は限られている。
特に、アンナとエステルの姉妹間には何か過去からのわだかまりがあって、視線も重ならず(側に寄っても多くの場面で垂直だったり捻れている)、交わされる言葉も少なくはじめから緊張感が漂う。その間を、知ってか知らずか(子供らしい敏感な察知、本能的な振る舞いとして?)少年ユーハンが取り持つ。
この精神的なバランスは物理的にも面白く可視化されていて、ホテルの中で姉はベッドルームを、妹はバスルームをいわば陣地としており、その距離はこれほどまでに、と思えるほど遠く撮られる。お互いが(時には鏡越しなど駆使しつつ)意識しながらなかなか距離は詰めない中、ユーハンはその間に位置するリビングやドアの境界に座っていることが多い。

そんな天秤のごとき関係性が常にぐらつきながら、病で弱る姉に対して妹がまるでここぞと復讐するかのように優位性を見せて傾かせていく…という重力に終始強く惹きつけられる。ただ3人がホテルに数日泊まるだけの話なのに、ここには明らかなヒリつくサスペンスが生まれているのだ。

彼女らの断絶は様々なボキャブラリーで語られるけれど、中でも「言葉」の存在は何度も顔を出す。
この異国の街(ティモカというらしい)では誰に対しても言語が通じない。しかし、姉とホテルのコンシェルジュや、妹と逆ナンしてきたイケメンのウェイターとのように、隔たりのあるはずの相手との方が時に心安さを感じられるのは、コミュニケーションの本質を指しているようでもある。

姉エステルの職業が翻訳家である、というのもまた鋭い皮肉だ。彼女は異なる言葉どうしを取り持つような仕事をしていながら、ついに自らと妹の断絶を解消することはできない。
彼女たちの間に具体的に何があったのか…は、会話の端々から滲み出る程度しかわからないのだけれど、ある地点で執着に変異してしまった愛情が、もはや手遅れとなったことが見て取れる。

姉妹の間を動く少年の周りは特に非言語的・暗号的に思える場面に溢れていて、それらすべてに解答を出すことは到底(わたしごときには)できない。彼を呑み込むようなホテルの廊下は魔界のようであり、彼の心の迷路にも思えるけれど、尋常で健全とはいえない家庭環境に置かれ、まだ柔らかな心がどうにか適応しようと無意識下でもがく様を反映しているようだ。(それが少し解りやすい形で噴出する人形劇のシーン!)

年齢にしては無表情で大人びて見える彼の表面以上に、取り巻くものたちがその不安定・不条理を語っているのだと思う。その歪みは戦争の影の濃いティモカの街の情勢と重ねられ、ホテルの外を蠢く戦車の音などに取って代わる。その騒音はホテルの沈黙を物ともせず、姉妹であっても無視することはできない。

妹はついに姉を突き放すが、図らずもラストにおいて少年(=息子)に決定的な何かが受け継がれたことを思い知る。少年が獲得した「非言語の言語」は、果たして負の連鎖なのか、新たな未来なのか。

ひとつだけ確かなのは、わたしたちはつまるところ誰もが違った言語を話しているに等しいということだ。聴き取る(翻訳)には相応の労力が必要なのは当然で、思い込みや諦めの先には重い静けさしか待たない。それは孤独とか、あるいは死と呼ばれたりするのだろう。