猿橋

スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望の猿橋のレビュー・感想・評価

3.0
生まれて初めて『スター・ウォーズ』見た!
誰も言ってないことなんて残ってないと思うので、頭に浮かんだことをそのまま書きます。

その昔、ポップミュージック雑誌の編集の仕事をしてたんです。で、よくアルバム評とか書いてたんですけど、当時から不思議だったんですよね。アルバムってだいたい10曲くらいの曲が収録されていて、「アルバム」という単位のアートフォームということになっている。でも、たまたま同時期に作られただけの曲を寄せ集めただけで、「アルバム」という1つの作品になったりするんでしょうか?

時が経った今なら分かります。答えは簡単で、要は単価の高い商品を売るために適当に作られた形式に過ぎないんですよね、アルバムなんて。結果的に「アルバム」という1つの作品になってる例もあるでしょうが、それは結果に過ぎない。最初に「アルバムという作品を作ろう」という目的があったわけではない。

ベクトルの向きは正反対ですが、映画にも似たようなことが言えると思うんです。映画って、1本1本が独立した芸術作品だという建前になってるじゃないですか。で、独立した作品としてああでもないこうでもないと評価される。
でも、映画1本1本ってそんなに独立してるんでしょうか? 同時期に作られてヒットしているハリウッド作品なんて、大体同じようなものだったりしないでしょうか? あるいはスター俳優が出ている作品同士は? 黄金期ハリウッドで言えば、ケーリー・グラントとキャサリン・ヘプバーンが主演のロマコメ映画とか何本もありますけど、客は果たして1本1本を独立した作品だと思って鑑賞してるんでしょうか?
1本1本の映画に対し観客に金を払ってもらうために、1本1本が独立した芸術作品である、という建前を押し通してるだけ、という面はないでしょうか? ポップミュージックにとってのアルバムと同じように。

生まれて初めて『スター・ウォーズ』を見て思ったのは、この映画が単体で芸術作品として成立しようとは全然していない、ということでした。ある歴史の流れのある時点からいきなり始まり、戦果は上げたけど本質的には何も解決していない時点で突然終わる。バックストーリーがありそうな固有名詞がやたら出てくるけど、結局何だったのか説明されずに終わる。あらゆる面で、全然単体で成立してないとしか思えない。

この感じ、現代のMCUにとてもよく似てます。よく「MCUに追い付くには映画何十本も見なきゃいけない」なんて言う人がいますが、そんなの嘘です。もしそうなら、アントマンとエンドゲームの興行収入の差は何でしょう? アントマンは見ずにエンドゲームを見てる人がたくさんいるからに決まってるじゃないですか。そして、それで全然問題ない。つまみ食いでしかMCUを見てない人間なのでよく知ってます。

『スター・ウォーズ』の革新性は色々あるんでしょうが、「映画はそれ単体で成立している芸術作品なんかじゃない」ということを体現してしまったことが重要なんじゃないでしょうか。作品単体として成立していないからこそ、余白を埋めるようにして続編やら前日譚やらスピンアウト・ドラマやらが作られ続けるのだと思います。
『スター・ウォーズ』の革新性の最重要部分を受け継ぐことに成功したのがMCUで、だからこそMCUの立役者が現在の『スター・ウォーズ』全体の仕切りを任されている、ということなんでしょうね。

しかし、映画の独立性みたいな建前を切り崩すことによって革新を起こしたわけで、良くも悪くも革新前には戻れないんじゃないの、という気もします。いや、映画という産業はずっと栄えているじゃないか、と? 確かにその通り。でも、『スター・ウォーズ』を生み出してしまった本人は、以後の長い映画人生を「スター・ウォーズの人」として生きてしまい、より一般的な意味での「映画」には戻ってこないままなんですよね。これは1人の作家の誠実さの表れなんじゃないでしょうか。
猿橋

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