猿橋

ドライブ・マイ・カーの猿橋のレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.0
村上春樹の複数の短編を3時間の長編映画にしていますが、特に序盤は村上春樹要素が濃厚で、言葉通りの意味で原作の「実写化」という印象でした。
人の心の奥には、深く暗い井戸がある。創作者とは、どんなに怖くても、危険を犯してでもその井戸に立ち入り、物語を汲んで帰ってくる者のことである。その井戸に繋がる道としての「セックス」と、その本当の底にあるものとしての「死」を重視する。
率直に言ってしまえば、数十年前に流行った俗流心理学、精神分析の類とも思えます。しかし、原作者にはそれこそ数十年の創作者としての実践と実績を通じ、上記のような創作論に強い確信があるんじゃないでしょうか。劇作家夫婦を主人公にした原作でも、主人公自身がそのような創作論を語り、またそのイメージが物語の根幹を形作っています。

原作が映画になって大きくイメージが広がったところは、上記「創作論」が「演技論」に接続されているところです。
映画中、主人公はチェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」の演出を手がけます。チェーホフのいわゆる四大戯曲(「かもめ」「三人姉妹」「ワーニャ伯父さん」「桜の園」)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、モスクワ芸術座での公演を通じて名声を獲得しました。そのモスクワ芸術座の共同設立者であり、チェーホフ戯曲の演出を手がけたのがスタニラフスキーです。スタニラフスキーは、役者が演じるにあたり、役の感情を実際に体験することを重視するいわゆる「スタニラフスキー・システム」で有名です。スタニラフスキー・システムの影響のもと、アメリカで花開いたのがいわゆる「メソッド演技」です。メソッド演技は、かつてのハリウッド黄金期的な演技を押しのけ、今やハリウッドの主流をなしています。アカデミー賞なんかで評価されて名優なんて言われるのも、広い意味でのメソッド演技というか、メソッド演技的な基準によって、です。

映画中、主人公が岡田将生演じるタカツキに語る演劇論/演技論も、スタニラフスキー・システム/メソッド演技に通じるものです。作品自体と向き合うことで自分自身と向き合え、という。その演技論は、村上春樹の創作論と通底しています。
タカツキの、そしてタカツキを演じる岡田将生自身の、いわゆる芸能界的な、「型」を演じるような演技の扱いははっきり言って悪意スレスレです。主人公の導きでようやく自分の中の井戸を覗き込むところまでたどり着いたタカツキは、そのまま井戸の中に落ち込んで映画から消えてしまいます。
ここに至って、主人公の演劇論と映画内の物語が交わっていき、「ワーニャ伯父さん」と交錯しつつクライマックスを迎えます。このクライマックスの高揚は確かに特別なものでした。チェーホフ戯曲から現代の日本映画までをきちんとロジックで繋げる歴史的なスケールでも、日本に限定せず東アジアから極東ロシアまで見渡す視野の広さでも、凄い映画なのは間違いないと思いました。

なんですが。これは原作者の問題でも監督の問題でもないような気もしますが、私はこの作品中の「ワーニャ伯父さん」、ひいてはチェーホフという作家の扱いにはっきりと不満があります。
「ワーニャ伯父さん」ラスト、ソーニャの台詞は確かに胸を打ちます。どのような人生を送る誰の心にも響く、普遍的な言葉だとも思います。しかし同時に、あまりに普遍的な言葉として扱われ過ぎ、どのような時代背景において、どのような人生を生きた作家が書いた言葉であったか、という具体性が抜け落ちてしまっているように思えて仕方がないのです。
チェーホフは、1861年の農奴解放令の前年に生まれ、1905年の第一次ロシア革命の前年に結核で死にました。チェーホフの祖父は農奴で、父親は事業に失敗、チェーホフは医大生時代に家族の生計のために短編小説を書き始めた人でした。小説家として名を成した後も、医師として働き、また社会を改良するための活動に惜しみなく力を注いだ人でした。後のロシア革命に繋がる政治運動に関わったりはしませんでしたが、ロシアの激変期に、ロシアをより良い国にするための活動には誰よりも熱心でした。「働かなくちゃ」というソーニャの台詞は、そういう人が書いたものなのです。
チェーホフの戯曲にも、作家活動のより重要な部分を占める膨大な数の短編小説にも、話者の立場や言葉遣いは違っても、ソーニャの台詞とほぼ同趣旨の言葉が何度も何度も出てきます。私たちの生きる現在のロシアは、特に人口の大部分を占める民衆の生活は悲惨である。かつて貴族は働かずに生活してきたが、いまや私たちは、ロシアを少しでも良い土地にするために働かないといけない。母なるロシアはあまりに広大であり、その働きは恐らく無駄に終わるだろう。それでも、100年後、200年後、いつかより良い時代が訪れることを信じ、死ぬその時まで働き続けよう。若い頃に結核に感染していた作家にとって、これは魂の叫びであり、人生に臨む姿勢そのものでした。
そのような心情は、決してチェーホフ1人のものではありませんでした。ナボコフは、チェーホフの小説に頻繁に登場するこのような人物を「ロシア知識人」と呼び、そのような人たちがかつてのロシアにたくさんいたし、チェーホフ自身がロシア知識人の典型であったと書いています。「ワーニャ伯父さん」に出てくるワーニャもアーストロフも、典型的「ロシア知識人」であり、アーストロフは作者自身の分身です。
チェーホフの作品からは、ロシア革命前夜のロシア社会にどのような空気が充満していたかを感じます。そして、恐らくその空気こそがロシア革命とソビエト連邦を生んだのだということも。ソーニャの「働かなくちゃ」という言葉は、かの有名な「働かざる者食うべからず」にダイレクトに繋がっているのです。

この映画では、ワーニャの台詞の裏にある歴史的・社会的背景が半ば捨て去られ、ごく個人的な心情を述べた感動的な言葉として扱われていなかったでしょうか。チェーホフ戯曲自体が、社会的な繋がりというより、精神の奥から生み出された個人的な産物として扱われていなかったでしょうか。
「ワーニャ伯父さん」はじめチェーホフ戯曲に対するそのような扱いを目にするのは、これが決して初めてではありません。でも、原作者はチェーホフの流刑島ルポ「サハリン島」を再評価し広めた人でもあったはずです。残念です。

三浦透子演じるドライバーの物語は、この映画を単なる特権的な創作者の物語に堕することから救っています。自然災害から復興する力も失った田舎の光景は、映画に社会的な広がりをもたらしてくれています。しかし、ドライバーの物語が演出家の物語の基盤を揺るがしたりはしません。「ワーニャ伯父さん」は、ソーニャとワーニャが田舎の土地という生活基盤を失う危機に立つ物語でもあります。一方、この映画の主人公・家福は、ワーニャと異なり、最後まで生活を脅かされたりはしないのです。そこがそのまま、この映画の限界でもあると思いました。

最後に具体的な不満点。ソーニャを演じる女優さんが美人過ぎるのがどうしても気になりました。この映画に限ったことではなく、「ワーニャ伯父さん」が上演される際には付き物の問題なんだろうとは思います。或いは、この映画自体にはそのことへの批評性もあるのかもしれません。でも、ソーニャは作中で明確に不器量であると書かれ、不器量ゆえにアーストロフへの恋も叶わず、婚期すら逃してかけている。演劇/映画だからって、美人が演じられる役だとは思えません。最後の台詞は、不器量な女性が発するからこそより感動的であるはずです。
この映画では、不器量というハンデを、発話障害というまた別のハンデで代用しているようにすら見えました。
猿橋

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