きゃんちょめ

ゼイリブのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

ゼイリブ(1988年製作の映画)
4.7
非常にいい映画である。


カント哲学というのは、人間は決して外すことのできない色メガネをかけており、それを通してしか現実世界の現象が現れてくることはないという考えだ。(ここで注意せねばならないのは、決して外すことのできないこの色メガネを、もし仮に外すことができるとしたら、裸眼では人間には何も見えないということだ。もしなにかを見ることができるとしたら、カント哲学は超越論的実在論になってしまう。カント哲学というのは、正しくは、超越論的には観念論であり、経験論的には実在論であるということを忘れてはならない。ここが重要なのだ。)



スロベニアの現代哲学者スラヴォイ=ジジェクのこの映画の評論を読んでからこの映画を見よう。

「どっちか選ぶんだ。あのメガネをかけるか、残飯を食うかだ。」

というセリフから、

「イデオロギーを替えるということには痛みがともなう」

ということが中盤のプロレスシーンで分かる。

サングラスを取ると真実が見えるのではなくて、サングラスをかけると真実が見えるという構造がまた絶妙に怪しい。サングラスを装着するというのは、今とは違うイデオロギーを装着するということなのだ。途中からコンタクトになることでもっとイデオロギーは変えにくくなってるように見える。

だから、実際には主人公には本当のことがみえているのだが、中盤まではそれを観客は知らないから、主人公もパラノイアに取り憑かれてしまった新興宗教徒と区別がつかない。他の人間にも、このメガネをかけてみろと必死に誘う主人公がむしろ哀れにみえてくる。見ていて明らかに頭がおかしいのは主人公の方なのだ。

ホーリーに、「あなたのサングラスでなにかが見えたとしても、それで私が何かを見たことにはならないわ。」と極めて冷静に断られるとき、主人公は最もバカに見えてくる。なぜかというと、主人公こそ、見知らぬ教会の見知らぬメガネで、何かが見えたと思っちゃってるバカだからだ。フランクはホーリーほど頭が良くないから殴り合いになって断ることに失敗したけど、ホーリーは頭がいいから殴り合いなんかせずとも簡単にメガネを断れてしまう。

後から分かって、本当に宇宙人だったから良かったものの、もし主人公が銀行でやつらを殺したあとに、主人公がただの変なメガネで幻想を見ているパラノイアだったことに気付いたらとんでもないバッドエンドであった。本当に殺したやつらが宇宙人で実に安心した。もし俺がフランクでも絶対にあんなメガネなんかかけたくないと言うだろう。明らかに怪しいからだ。

そして、真に恐ろしいのはホーリーや、他のパワーエリートどもである。

彼らは、世の中が宇宙人に支配されているのをとっくに知っているのだ。そして、それでもいいと思っている。真実より、自分だけが幸せな嘘を選ぶ。こういうタイプの女性ってのは割といる。こういう倒錯した現実主義(リアリスト)というのが一番卑怯だと俺は思っている。

真のリアリストは主人公たちのほうなのに、彼らは『私たち地球人はもうすでに侵略されてしまったのだから、やつらと協力して自分たちパワーエリートだけがうまい汁をすするというのも現実的な選択で、理想論を振りかざすのはやめろ』とか平気で言ってくる。多少の犠牲はやむを得ないとか平気で言いやがるリアリストどもだ。自分たちはその犠牲なんか一ミリも払わないくせに、大いなる平和のために多少の犠牲は我慢しろ。それが現実的な選択だとか言ってくる。

彼らエセリアリストが実際、一番こわい。

宇宙人よりパワーエリートのほうが悪質である。90分あったらこの映画を見よう。
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