賽の河原

プラダを着た悪魔の賽の河原のレビュー・感想・評価

プラダを着た悪魔(2006年製作の映画)
3.1
働くことへの覚悟、自分らしく生きることとは何か、キャリアと私生活の折り合い、女性の自己実現とは。スマートに描いていて非常に好感が持てた。
選択というもの自体、妥当性や他の選択肢や可能性やらをその場で全て理解して選択することは不可能。
「自分が決めた」という再帰性のみがその選択を後悔させない要因となる。
主人公アンディはカリスマ編集長のミランダの姿を見てある選択をする。ミランダの姿は無論アンディの「そうなるかもしれない可能性」であり選択肢の1つである。アンディの選択もまたその選択が妥当であったかは分からない。新聞社に入ろうが同じことが起こるようにも思えるが...w
しかし、よく分からぬままランウェイに入ったアンディよりは新たに新聞社に入る彼女は再帰的に選択をしているし、彼女のパートナーもまた再帰的に選び直している。
故に、映画の冒頭のアンディとはまた違う姿を終盤のアンディは見せるし、それが観客にとっての気持ち良さ、カタルシスになっている。
ただ、男の視線で言うと、「そうは言ってもお前全然保険あるじゃねーか」「アン・ハサウェイのルックスなら幾らでも養ってもらえるだろ」とか身も蓋もないことも言える。
仕事とプライベートに悩む女性にお薦めの映画ではあるが、リテラシーのない人が「オシャレな映画だから」と言って、優秀さと美貌を併せ持つ(ようになる)アンディに安易に自らを重ね、バイブル化してしまうのは危険な映画と言えるかもしれない。
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