Nella

ベニスに死すのNellaのネタバレレビュー・内容・結末

ベニスに死す(1971年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

見てはいないのだが「おやすみシェヘラザード」という、映画評と百合を掛け合わせた漫画を読んでほぼほぼネタバレしたし、これだけ有名だと嫌でもストーリーも知ってしまっているので、評価ではなくその「おやすみシェヘラザード」で気になった描写について書きます。

主人公の箆里詩慧は、子供の頃に「ベニスに死す」を見て言語化できない何かを感じ、その事についてずっと考えていたんだけど、後輩で腐女子のふらんちゃんがそれをズバリ「性癖」と断定してしまう。まあ確かに、おっさんが美少年を付け回すなんてある意味性癖でしかないとも言える。しかし詩慧は「私の感じたものはそんな一言で片付けられるものじゃない」と憤って揉める…という回があった。
腐女子は、というと主語デカだけど、頭の回転の早い腐女子は、短い言葉で断言することがイコール本質をついた適切な言語化、と思い込みがちな所があると思う。Twitterのような短文形式のSNSやテスト教育の弊害かもね。でもこの映画を「性癖」の一言で片付けてしまったら、ただのペドフィリアのストーカーの話って事になってしまうと思うのだが…。事実、ルキノ・ヴィスコンティ監督はこの主演の美少年、ビョルン・アンドレセンにストーカーどころか大変酷い事をした、という記事が最近ELLEに載っていた。↓
https://www.elle.com/jp/culture/celebgossip/g35475943/born-into-a-whutering-family-bjorn-andresen-210216/

「路の果て、ゴーストたちの口笛」という小説がある。ネオビートニクスとでも言うのか、ビートニクスがリバイバルした90年代に書かれた、孤児の少年のロードムービー的な小説である。その中で主人公のマットが、「ベニスに死すごっこ」をしたがっている金持ちの老人と出会う。彼はもう死にそうなので、今まで一度もしたことのない「少年を囲う」ということをしてみたいのだという。こう書くと本当身も蓋もない搾取だし、「ベニスに死す」の本質をこの老人が捉え損なってるというのがよくわかる。

別に「手を出したらペドとして終わり。男女どっちだろうと何をするかわからないから子供を作らないぐらいの覚悟があるのが立派なペド(実際澁澤龍彦はそうだった)」という訳でもないのですが…ペドフィリアの中にある欲望って普通は「感じてはいけないもの」という事になってるじゃない?でも映画はどんな人でも、どんな不道徳な感情にも共感させる事ができる。だから安易に言語化しようとすると脳がブレーキを掛ける→結果的にモヤモヤしたものになる、というのが私の仮説です。
勿論ふらんちゃんみたいに「ハイハイ性癖性癖。このおっさんは病気なんだよキモいね」と片付けちゃってもいいんだよ。それも自由。
でも「私の感じたものは何だったのか」とずっと考え続けるところから、例えば文学や芸術が生まれるのではないかと思う。

※誤読されそうなので追記しますが「ペドフィリアの気持を分かれ」と言ってるんではないよ。監督が性加害したので、それを庇うように聞こえてしまうかもしれませんがそうではありません。
映画という芸術はどんなに思想の異なる人の気持にもなれるし、表層だけを見て簡略化してしまっては何事もつまらないよね、と言いたいのです。
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