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奇跡の海のambiorixのレビュー・感想・評価

奇跡の海(1996年製作の映画)
3.8
新年あけましておめでとうございます☺️
2023年一発目はラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』(1996)です。この監督の作品ほど毀誉褒貶が激しく、また鑑賞する側の精神状態や体調によって評価のコロコロ変わる映画群も珍しいんじゃないかと思いますが、今の俺なんかは実生活でのメンタルがぼろぼろですから、トリアーの映画がいちいちぶっ刺さって仕方ないし、考えようによっちゃ自分より不幸な人間を見て安心する、破滅していく人間を見ながらゲラゲラ笑う、なんという楽しみ方もできるわけです。ただ、ひとつ言っておきたいのは、トリアーは巷間言われているほど悪趣味な映画作家ではないし、胸糞の悪い作品ばかりを撮りたがるキチガイなんぞでも無論ないよ、ということ。そら主人公が最終的に死んだり、その途上で悲惨な目に遭い続けたり、などといった表層の部分だけ抜き出して語ればそうなのかもしれない。なんだけど、主人公の視点に寄り添って見てみると、彼/彼女らが必ずしも不幸な最期を遂げているわけではないことがわかる。俺がこれまでに通ってきたトリアー映画は全部で5本ですが、ヒロインの夢見る力が現実世界を凌駕し勝利して終わる『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、自分を虐待してきたクソみたいな村人を村ごと消し去る『ドッグヴィル』(ただしここで断罪される人間ちゅうのはわれわれ観客そのものでもあります)、『メランコリア』は世界の破局という危機によってリア充たちがうつ病状態の自分と同じレベルにまで落ちてくるざまあみろなお話だし(ここでのヒロインの描写はコロナ禍における無職やニートのメンタルにも相通ずるものがある)、『ハウス・ジャック・ビルト』にいたってはサイコキラーの主人公が地獄に落ち、エンドロールで「出ていけ、もう二度と戻ってくんな」と連呼されて終わる(笑)。これだけ全然バッドエンドじゃない(笑)。つまり、トリアー作品は一見したところ救いのない悲劇を描き続けているように見えて、その実そうなってはおらない。社会で幅を利かせてふんぞり返っているむかつくマジョリティや社会通念に唾を吐きかけ、中指を立てて終わる映画がほとんどなわけです。そのスタンスがもっとも明瞭に現れた作品が本作『奇跡の海』なのではないか。
前置きが長くなりましたが、じゃあこの『奇跡の海』がいったい何に中指を立てているのかというと、教会を象徴とする権威主義、そして男性中心主義ですよね。田舎に住む人間の陰湿さや排他性なんかもそこに含めていいかもしれない。少なくともこれは「おつむが弱いが思い込みだけは異常に強い女が売春婦に身をやつし最後はヤクザにボコボコにされて死ぬ」悲惨なお話ではない。むしろその逆です。本作の主人公ベスは、油田プラットフォームの事故によって全身麻痺の身体になってしまった夫ヤンをひたすらに救いたいと願い祈る殉教者のような人物として描かれている。ヤンの「(俺は)もう助からないからお前は愛人を作ってその様子を報告してくれ」という言葉を間に受けたベスは、バスの車内にいた知らん男のペニスをしごき、行きずりの男と寝てしまう。けれども、そのたびに危篤状態だったヤンが一時的にとはいえ回復することになる。こんなもんはもう奇跡としか呼びようがないわけですけど、そんな狂気的なまでの夫への愛や、キリスト教が固く禁じるところの姦淫という行為でもって神的な奇跡を執行、その一方で、女やよそ者(ヤン)を嫌いドグマティックなお題目を唱えるばかりで苦しむ弱者をちっとも救ってくれない教会・神父という名の権威を洒落のめしていく。そういう意味でいえばトリアーほど冒瀆的で性格の悪い人もいないんじゃあないかと思えてくるほどですが、同時にやっぱり痛快でもあるんだよね。詳しいネタバレは避けますが、そのことが極点に達するのがあのラストシーンだと思う。確かに幕切れ自体は悲劇的かもしれないけども、主人公の死=悲劇だ、なんつって短絡してしまうというのはあまりにも貧しすぎる。ベスは最終的に宗教を超越してみせたのだし、愚直なまでの愛を信じ抜いて死んでいった。どこからともなく響いてくる鐘の音には希望があり、救いがあった。よってこのお話は決して悲劇なんかじゃあない。けちくさい宗教から締め出された女の純粋な愛情が宗教をぶっ刺して終わる復讐譚と呼んでもよいのではないか。
しかし冷静になって考えてみると、俺は何が悲しくて年始にこんな映画のレビューを書いているのだ…。
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