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フローレスのSPNminacoのレビュー・感想・評価

フローレス(1999年製作の映画)
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男らしさを誇示し、我が物顔で街を闊歩する元警官ウォルト。だが、自分が脳卒中で倒れ憐れまれる弱者側になると、マジョリティとしてマイノリティとの間に引いた境界はあっさり崩れる。ベッドで女を見下ろしたウォルトは、自分がベッドで女性医師に見下ろされる。マイノリティや娼婦を排除する男が、移民の理学療法士に頼り、言語障害のリハビリのためドラァグクイーンのラスティを先生に歌のレッスンの生徒となる。
でも主な舞台となるアパートは、両者が住む世界はもとから同じだと示してるのだった。騒がしいドラァグクイーンの声は常に境界を越えてくるし、下の階からラスティたちの部屋を見上げているウォルトは、ちっとも優位じゃない。ドラァグクイーンたちの共同体と違って心を開く仲間も、愛する人もいない哀れな男、写真の中だけの英雄。
一方、誇り高きラスティにも人に言えない弱みがある。鋼鉄の防犯ドアはプライドを守る最後の境界線だった。お互いの部屋を行き来して、やがてドアは開かれ、いつしか境界は溶けて混じり合う。そしてホモフォビアとゲイが(或いは共和党のゲイも)一つの部屋に集まる。別に理解し合った訳ではなくとも、同じ世界に存在するのを否定しない。車椅子の老婆含め、社会的弱者たちが主張し合いながら暮らすアパートは社会の縮図。そこを脅かす招かれざる客がギャングとDV彼氏だ。
今観ると、いささかマジカル・クィアな映画かもしれない。けど、ジョエル・シュマッカーはドラァグクイーンたちの政治行動を当たり前に挿入するような現実味を持ち、誇張した喜劇にも悲劇にもしなかった。というか敢えて喜劇は悲劇、悲劇は喜劇にする。そこがドラァグクイーンのキャンプな心意気らしく思えた。
銃声に駆けつけようとして階段を上がれなかった、またラスティを女として認めなかったウォルトが駆けつけて妹と呼ぶ。ラスティも危険な階段を下りる。鉄のドアはもう意味がない。それで充分。
なにしろ、ロバート・デ・ニーロとフィリップ・シーモア・ホフマンがふざけ合うエンドロールがすごく良いの。カメラがぐるぐるしながらの長いショット、カットをかけずに即興で続けてるみたいで、あんな楽しげなシーンがあることがすべてじゃないかな。
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