純

ミツバチのささやきの純のレビュー・感想・評価

ミツバチのささやき(1973年製作の映画)
5.0
名前はどうして存在するのか。私たちが名前を呼び合うという行為。それはあまりにも脆いけど、「私はあなたを必要としています」と強く相手に伝えられるかけがえのない希望なんじゃないだろうか。あなたの声が聞きたい。あなたにこっちを向いてもらいたい。あなたに会いたい。渦巻く思いを胸に、ひとはひとの名前を呼び続ける。生者に対してだけでなく、死者に対しても。

死者だけでなく生者も、その死が訪れる前の自分には戻れない。死者は命を奪われ、生者は過去がトラウマとなって違う自分になってしまうから。少し前に観た『この世界の片隅に』の主人公すずさんも、戦争を経験する前のすずさんに戻ることはできない。知ってしまったことを知らなかったことにはできないということは、なんて残酷なんだろうね。この映画はメタファーで出来ている作品だから、描写以上に深い内容が全ての甘美なシーンに込められていると思う。例えば、蜂の巣について。アナとイサベルの父親はミツバチの研究をしていて、ミツバチは神秘的な存在だという台詞が流れる。「穴から出たら最後、ひたすら労働してその一生を終える。報われることはない」1940年というスペイン内戦直後が舞台となっていることを踏まえると、はじめは蜂に例えられているのは兵士たちなんじゃないか、と思いながら観ていた。でも、彼らが住む家の窓が蜂蜜色が差し込む蜂の巣模様の作りになっていて、住民であるアナたちも蜂であるようにも感じられたし、後に兵士たちを表すのはこっちじゃなかろうか、というメタファーもあったから、私個人の見解だけど、蜂の巣は大きく当時のスペインという国家を表していて、戦争というトラウマを抱える労働者である生者たちが「報われない蜂」と表されているのかなと思う。戦争直後のスペイン国政への間接的な批判を蜂のメタファーで表しているのかな。報われない蜂として生きるアナたちの周りにいる大人はそれぞれスペイン内戦が引き起こした喪失、孤独を身に纏って生きていた。荒廃した雰囲気も、ひとりで過ごす描写が多いのも、彼らの抱える喪失感や孤独感を表しているんだと思う。

内戦自体が終わっても、内戦がなかったことには決してならない。元には戻らない。失ってしまったもの、もう取り戻せないものばかりが漂う世界で、純真なアナは『フランケンシュタイン』の映画に出会う。「どうして彼は彼女を殺したの?どうして彼も殺されたの?」姉のイサベルに問うと「本当は怪物も女の子も死んでないのよ。映画の中のことは全部嘘なの。お友達になれば、呼びかければいつでも会えるのよ」と教えられる。どうして彼は彼女を殺したのか。ここでいう彼とは『フランケンシュタイン』に出てくる怪物のこと。この怪物は死体から生まれた人造人間で、きっとこの怪物が、後にアナが出会う兵士を表している。つまり、戦争を経験した、死に直接触れてきた兵士たち。戦争でたくさんの敵を殺し、また、殺された当時の人々。戦地に向かわずに労働で国に奉仕した蜂たちとは別に、ひとを殺め、殺められる対象となった人造人間に、兵士たちは成り果ててしまったんじゃないだろうか。優しい心を持ち合わせていたのに、戦争という許されない出来事が、彼らを破滅に導いてしまう。

これらのメタファーで、直接的に暴力的な戦争を批判するのではなく、戦争後に人々が心に負う傷を哀愁漂う世界観の中で美しく描いている。戦争は美しくなんかないけど、この映画では暗闇で彷徨う大人たちと対照的な立ち位置にいるアナ目線で物語が進むことで、暗雲立ち込めるスペインの行き先に希望を見出す作りになっていると思う。アナは純真無垢な女の子で、戦争のこともよく分からない。子どもたちが映画を怖がる中、アナは興味津々でストーリーに見入っていた。他の子は人造人間が怖い。だけどアナは平気だった。だから彼女は逃亡してきた傷ついた兵士にも近づき、彼を助けようとする。イサベルは嘘をついてアナを騙すけど、イサベルだって悪意で騙してるんじゃない。そして、アナは心の奥底で信じている。名前を呼べば、お友達になれば、会いたいひとにいつでも会えるんだと。アナは兵士の死がショックで言葉を発しなくなってしまうけど、これもトラウマのひとつだろうと思う。それでも、アナはただ嘆き悲しみに暮れるわけではない。純真無垢なだけでなく、前を向いて生きようとするエネルギーや強さだってあるのだ。彼女は過去をしっかりと胸に抱いて、夜、「私はアナよ」と心の声で語りかける。

映画の途中の理科の授業で、子供たちが模型に心臓や肺、胃などの臓器を正しくはめてあげる描写がある。戦争で身体に傷を負った戦士たち、心にトラウマを抱える労働者たちを治してあげられるのは、未来を担う子供たちなんだろう。その中でも、アナが模型にはめた器官は眼だった。アナのような純真な心で、現実を見つめて、信じることができれば、アナのような瞳を持つことができたら、きっと人々は救われる。会いたいひとにもう会えなくても、相手が死者であっても、私がここにいることを伝えたいと思えるのは、相手とつながりたいと思えるのは、儚くて哀しいことだけど、きっとものすごく美しくて尊いことだ。

スペイン内戦が人々から奪ったものはとてつもなく多く、そして大きい。命をかけて戦い、その命を失った死者たち。大切なひとを失ってなお生きるしかない生者たち。誰しもがそれぞれの痛みとともにある。戦争は最低で最悪。そんな状況で死んでしまったひとも生かされたひとも不憫だ。でも、どんなに荒廃した世界にも、希望があることをこの映画は最後に教えてくれる。形あるものは消えてしまうけど、逆に言えば形のないものは消えもしない。名前も消えないもののひとつだと思う。喋れなくなってしまったアナのように後遺症が残っても、喪失感や孤独感を抱えながらも、それでも不明確な希望にすがって誰かを、誰かの名前を呼び続ける姿は、静かにもがく姿は、そうやって生きていいんだって、私たちを丸ごと包み込んでくれるような優しさがある。忘れなくていい。悲しんでいい。苦しみながらもがきながら、頼りない一筋の光に手を伸ばせばいい。どんなに報われないと思っても、蜂蜜色の輝きを発してるのは他でもない自分たちなんだと、蜂たちは気付くべきだ。

戦争に限らず、生きているひとたちはトラウマを抱えて生きているんじゃないか。他人からは小さなことに見えても、自分にとっては忘れられない嫌な記憶も、苦しい過去もあるだろう。私は、この映画に登場する、届かないかもしれない相手に手紙を書き続ける実の母や、姿の見えない死者に呼びかけるアナのような祈りを捧げるような相手はまだいない。でも、死者にでさえと言ったらなんだけど、届くと信じないと呼びかけられない相手にも名前を呼び続けるひとたちがいるなら、届けられる相手にきちんと呼びかけたい。「また会える」なんて曖昧な現実に甘えてもいたいけど、でもやっぱりきちんと名前を呼びたい。たかが名前と思うこともある。別に私がサチコでもカズコでも大して変わりはないじゃん、と。でも、自分が誰かに呼びかけて、そのひとも呼んでくれるから、この名前じゃないとだめだ、と思う。今までに出会ってきた大事な人たちが、無意識にでも私だと認識して私を呼ぶために呼んでくれた名前だから、この名前は失いたくないと言いたい。お父さんお母さんが大事につけてくれた名前だからというのもあるけど、それも含めて、どんな音でも構わなかったけど、でも私のすきなひとたちが呼んでくれてる名前だから、この名前以外嫌なんだって、思える幸せを噛み締めていたい。
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