ガンビー教授

マイ・フェア・レディのガンビー教授のレビュー・感想・評価

マイ・フェア・レディ(1964年製作の映画)
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正直に言って最初から最後まで居心地の悪さを感じずにはいられなかった。一応さいしょに念を入れると、ここに書く文章は批評とかではなくて、あくまで僕の感覚的、生理的な何かに過ぎない。

オードリーヘップバーンという人は他のどの役者よりもまさしく「お人形さんのような」という形容が似合う女優だ。

それは言い換えれば、「いちばん上等なドレスを仕立ててこの子に着せてやりたいと思うような」という風な表現もできるし、もっと直接的に言えば「一種のピグマリオンコンプレックスを強く刺激する」と言うこともできる。

そういう女優が「マイ・フェア・レディ」を主演するというのは必然かもしれない。

本作は彼女のいわゆるアホかわいいと言うような演技と、それに対比するような気品ある振る舞いによってかなりの魅力を獲得している。キュートと言えばキュートだし、ファニーと言えばファニーな映画に仕上がっている。

しかし、乗れなかった。話の前提にどうも居心地の悪いものを感じてしまう。そのいびつさみたいなものを、バランスを取る複数のキャラの配置だとかコメディーの演技でうまくカバーしてはいるものの、どうしてもいびつな何かを感じ取ってしまう。これは観客である僕の問題かもしれない。

何もポリティカリーコレクトとかフェミニズムを持ち出さなくても、どう説明すればいいのか本当に難しいが、最近の作品で言えばキングスマンという映画に一部の観客が感じる居心地の悪さに似た感覚と言えば伝わるだろうか。

イライザには確かに自主性や自己主張がある。それにしても、それこそ彼女の本性を目の当たりにしたうえで一発で恋に落ちたフレディと結ばれる以外に僕の納得できる結末はなかった気がする。

美しい瞬間もある。舞踏会で華々しく成功を収めてからのイライザの心の揺れ動き。「何の賞賛もねぎらいもなかったから」と台詞では説明されるが、もっと複雑な感情の機微があの展開のなかに浮かび上がっているように見える。言い合いをしたあとイライザが指輪をどうするのか、その意味は。なぜかつての自分のテリトリーに一旦戻るのか、そこで彼女は何を感じ取ったのか。このあたりは観客の想像にゆだねられている。

何より、彼女の「あり得るかもしれない華々しい自分の姿」を希求する感情はシリアスなものだし、胸を打つ。この映画のこういう美しい側面と、居心地の悪いいびつさに挟まれて何とも言えないもやもやっとした感情に駆られた。ヘップバーンについても僕はわりと好きなだけに……

あと、さすがに長い。惰性で切られずに残っているのではないか……というような台詞や場面があり、そもそも作品の資質と尺の組み合わせにアンバランスなものを感じた。

最後まで見て、やはり僕は、この作品よりなら『めまい』の居心地の悪さのなかに浸っていたいと思った。

あとやっぱ、ヒギンズが「とうとう思い通りの女ができた(I said I'd make a woman and succeed I did)」と言うところはマジで怖い。
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