ジャン=ピエール・レオはジャン=ピエール・レオだった。
アントワーヌ・ドワネルでも、フランソワ・トリュフォーでも、もうなかった。
紛れもないレオなのだ。
レオほどスクリーンで存在感を放てるのはなぜなのか。
そして、なぜこんなにレオに目が惹き付けられてしまうのか。
ますます分からない。
けれど、たぶん、私が言えるのはレオはレオなのだ、と思っても、
私生活のレオは見えないからだ。彼のスクリーンでの存在感から私生活は窺えない。
その浮遊感を感じさせつつ、地に足をつけているように感じるレオ。
うまくまとまらない。ただ、彼のような人もまた、出てこないのではないだろうか。
なぜか分からないがのめりこむように観た。