カタパルトスープレックス

流れるのカタパルトスープレックスのレビュー・感想・評価

流れる(1956年製作の映画)
4.2
成瀬巳喜男監督の最高傑作の一つ。幸田文の原作です。『流れる』において観客の視点を提供するのは田中絹代演じる女中の「梨花」ですが、これは幸田文本人の視点でもあります。

舞台は明治時代まで新橋より格上だった花街の柳橋。その柳橋にある芸者置屋「つたの屋」です。幸田文は一時期置屋で女中をしていたことがあり、その頃の経験がこの原作に活かされています。柳橋は江戸時代から続く格の高い花街でしたが、徐々に落ちぶれていきます。登場人物は置屋に身を置く芸者たち。経営者のつた奴(山田五十鈴)と娘の勝代(高峰秀子)が主人公たち。

『流れる』でまず気がつくのは成瀬映画の特徴の一つである「ダメな男」の不在です。そして、その不在が男のズルさとダメさを際立たせます。『流れる』に登場する女性たちは芸者として、料亭の経営者として、金貸しとして逞しく生きています。誰一人として男に依存していません。「女性の自立」一貫したテーマとしている成瀬幹雄映画の登場人物にふさわしい女性たちです。これは田中絹代も同様です。

この映画は柳橋という落ちぶれていく玄人の街の素人目線でのスナップショットです。しかも、芸者にとっての表舞台であるお座敷ではなく、舞台裏である置場。生活者としての芸者を描きます。だから相変わらず「お金」が付き纏います。これも成瀬映画の特徴ですね。表舞台で見栄をはって「粋」に見せても、その「粋」は舞台裏では単なる見栄っ張りになってしまいます。それで家計は火の車。

山田五十鈴は確かに経営者としての力量はないのかもしれません。ダメな経営者です。でも、柳橋という花街自体が落ちぶれていく流れの中で精一杯やっていくしかなかったのでしょう。東京23区中に21区にあった花街で現在も盛場として残っているのは新橋、赤坂、神楽坂などわずか。だからタイトルも『流れる』なんじゃないでしょうか。ちなみに、大塚などにはまだ料亭も芸者も少しのこってるようですね。

おそらくこの映画は本来なら満点5.0の価値があるのだと思います。ただ、やはり当時と現代では時が離れすぎています。現代のボクにとってこの映画の本質を理解するには「お勉強」が必要でした。柳橋という土地、芸者という仕事。そういうことを理解しないとわからない映画だと思います。サイレント映画のムルナウ監督作品『サンライズ』は今の時代でも「お勉強」なしに理解できる普遍性があります。フランク・キャプラ監督作品『素晴らしき哉、人生!』もそうですね。そういう100年経っても理解できる普遍性は残念ながら『流れる』にはないような気がします。