この映画でトリアー監督が見せたかったのは『ビョーク』という歌姫であり、脚本から救済の要素を排してしまったのは、彼女を浮かび上がらせるための仕掛けの一つだと私は受け取った。
映画はフィクションであるからこそ楽しめる側面があり、観客には場面に応じて主観と客観を行き来する自由がある。
私はこの映画を観ている間、ビョークのステージを堪能するためにずっと引いた視点で通した。
全てが悪い方向へ転がり落ちていく現実のシナリオ。
対比するのは、ジーン・ケリーやアステアが見せてくれた幸せなミュージカル映画の世界。
くっきりした明暗、だからこそビョークの歌声に何かが宿るのを感じられた。
しかし、メジャーな興行にのせたために多くの純粋な観客を傷つけたことを思うと、手放しに賞賛することが憚られる。
手持ちカメラで撮られた現実は三半規管への刺激を蓄積。
追い討ちをかける生理的にショッキングな結末。
現実のシナリオはひたすらに嘔吐を誘発する。
監督が意図して人体の錯覚を利用しているような気がしないでもない。
観る人を選ぶ大人の童話。
支持も不支持も、間違いではない。
私は二度とこの映画を見ることはないだろう。