ニューランド

ファウストのニューランドのレビュー・感想・評価

ファウスト(1926年製作の映画)
4.0
 作品よりも、132分という上映時間に偽りがあったと、抗議·真偽の調査依頼というより、明らかに警察を呼んでもいい位に暴れてて、料金をむしり取る、しか頭にない輩がいた事に驚いた。しかも、アテネ側はそれを唯一気付かれた貴重な指摘と言って、暴力に屈しその者にだけ、料金を返還した。暴れなくて、その指摘を丁寧に細々とした者も多数いたが無視、暴れた者だけを丁重に扱っていた。小さな所帯なのだろうが、暴力だけには屈して当然、という姿勢。情けなや、松本氏。
 しかし、優れた映画である。特殊効果満載、限り無いセット·ミニチュアの超大作なのに、一糸乱れぬ柔らかい統制が行き渡り、前半の限りない映画表現の模索と完全な到達、後半のデリケートでプライベートな表現の押え込みと正確な組立て、共に考えられない次元を実現している。光の多筋的柔らかい差込みと煙や埃による霞み部分取込み、一方クリアでシャープなルックと構築の証明部も、翼が異常に巨大な天使や悪魔の着ぐるみ·メイクの·寧ろ動物的自然で可笑しくない壮麗さ、それを街絡みで更に巨大を印象付ける姿や顔面の合成や二重焼き、かなり緻密で尖塔部も突き刺しくるような怖い位の造型と立体細部·それも考えられない延長距離のミニチュア、それを捉えてく空撮的複雑優美な移動、その視界縦横移動に組み合さる布上の2人の移動と移動感、建築物や自然の癖ある広大セットへ光のアニメ的要素を加えてのより絶対感、イメージや実際に苦しむ民やその中死に至る者のOLや陰影の深み、全てがドラマ上で掴みきれない身近さと巨大矮小の対比力まで表し、それらの大胆で段階を踏んだ慎重さで構築され、整えられ、慄きながらもこちらも受入れ得る。それが前半。
 ストーリーは、「人間は、善でも悪でも、自力で最終的に選び得る」と勿論善への自力到達を信じてる老ファウストは、地上を我が物にと願う悪魔に対し、「真実に生きる稀なるファウストを取込み崩せたら」という大天使の条件に使われる。悪魔はまず、国にペストを流行らせ、人々の尊敬と救いを実践のファウストを窮地に陥れる。悪魔は魂を奪う前に、1日のお試し期間を提案し、形上ファウストの忠実な召使いと成って、効果を見せてゆく。その間大した葛藤もなくファウストはなびくが、敬虔なクリスチャンに触れられず、サタニストとして追われてしまう。悪魔=メフィストは、ファウストが知らない世界へ連れ出し徐々に支配関係を気づかれず逆転すべく彼の気丈さ·前向きを打ち砕いてゆく。享楽や若さの取戻しへの、不可逆的が、実現しその甘さに浸るように。
 そして、伯爵令嬢との交際から、故郷懐かしが悪魔への実現要請となる。魂を得る事の返礼としてファウストの要求通りに望みを叶えると言いたがら、言葉尻や不完全な思惑を捕まえて、次第に支配を逆に意地悪く実現してく悪魔。
 ファウストが若き姿で故郷に帰ってよりは、終盤の字幕の大字連ねによる問いかけ、悪魔の支配が成っても打ち破る「愛」の力の存在の強調場を除いては、村やその家·屋外の丁寧で微笑ましい等身大の作り込み·描写タッチの正確さ、その積み上げに移行する。恋した娘の反対する兄を誤って討った形になったり、娘が子を宿していた事からの、魔女としての火刑の場は、自然や人々の目からも厳しい象徴性を帯びてくるが、じっと現実の悲惨を見つめ、歪んだ娘の表情や、そこへ前進移動してくカメラは、人間の追い詰められた悲惨·限界の思念だけを追ってゆく。前半と違い等質のカットのポイントの付け方と、ショット間の互いを被りながらの組合せが素晴らしいし、慎ましい。取り澄ましや卑下はまた、一切ない。
 汎ゆるスケール·場·叙述において、職人というより神的位置からオールマイティに達していたムルナウを証明する作である。
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