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ヒトラー 〜最期の12日間〜のGararararaのネタバレレビュー・内容・結末

ヒトラー 〜最期の12日間〜(2004年製作の映画)
3.2

このレビューはネタバレを含みます

秘書ユンゲから見たヒトラーと幹部たち(家族)の最後の様子。
ヒトラーやドイツ軍を無邪気に信じて安全だと言ってる子供たちが切ない。
その子供たちを毒殺する母親、どちらも切ない。
ヒトラーの左手の震え、二面性
狂気(不安)で現実が見えなくなっているヒトラーと盲従し理想論を掲げる首相、そして現場の状況を知っている将軍たちの平行線。

ナチスを信奉し、自警団として勝手に戦闘反対の同じ住人を殺しまくる人々。
この人たちは復讐と善き時代を取り戻すために生き続けるのかな?
日本でも、自警団や婦人会による差別や村八分はひどかったみたいだし、戦争が終わった途端に手のひらを返せる人々が多かったと聞く。
“善意の市民”は怖い。

エンディングが長かったけど、最後にユンゲ本人のインタビュー。


総統本部“狼の巣”
東プロイセン
ラステンブルク
1942年11月
秘書
ロレンツ…フルダ出身
プットカマー…フランクフルト出身
ポトロフスキー…ベルリンのパンコ地区
ブラント…クライスハイム
フンプス…ミュンヘン、22歳、採用

ブロンディ…ヒトラーの飼犬

2年後
1945年4月20日
ヒトラー 56歳の誕生日
→首都12キロ所から短距離砲撃→撤退
シェンク教授

少女「総督に誓ったわ」

ベルリンの壁 1945年4月23日

「非ナチの世界で子供を育てたくない」

「私は軍人として提案します。ぜひ脱出の努力を。すでにー2万人近い若い将校が防衛戦で倒れています」「若者の使命だろう」
「ヴェンクは来る。ヴェンクは来るとも」

「速記を頼む。“政治的遺書”」
「何世紀が過ぎてもー都市や文化財の廃墟からー戦争責任を負う者らへの憎悪が再生するだろう。責を負う者らとはーユダヤ民族とその支持者どもだ」
アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚

「総督、弾薬が尽きた場合の指示を」「私は降伏はしない、決して。降伏は禁じる。諸君を含む全将校に」

ギュンシェに遺体を跡形もなく燃やすように指示→ガソリン200リットルを集める指示

「総督の内面は謎だわ。私生活ではーお優しい。その一方でー冷酷な言い方も」「“総督”の時はね」
「ユンゲさん、餞別に受け取って。あなたに着てほしいの。きっと似合うわ」(毛皮のコート)「すてき。ありがとう。着る機会あるかしら」「お願い。生き延びて。約束よ」

(食事を終え)「時は来た。終わりだ」

「総督にお別れを」
ヒトラー自身のナチスバッジをゲッペルス夫人の胸につけ「帝国一勇敢な母に」

毒のカプセルを噛み砕き頭部を銃弾で自殺
→外の穴に置き、ガソリンを撒いて着火

市民を絞首刑“私はアカの味方”“ボリシェヴィキ支援者”

「新政権を代表して話し合いに来ました。休戦交渉です。わが国と貴国はー最大の被害国ですから」「あなたが私の立場なら交渉に応じますか?」「我々は無条件降伏は受け入れられません」「この状況で他の選択肢はありませんよ」

子供たちに毒カプセルを噛ませ毒殺

“1945年4月30日.、総督は自決なさりー忠誠を誓った我々を残したまま逝かれた。ドイツ軍兵士諸君は総督命令に従いー抗戦を続けてきたが、武器弾薬も尽きた今ーこれ以上の抵抗は無益である。即時戦闘中止を命令する。戦闘を続けてもー市民と負傷兵の苦しみを長引かせるだけである。ソ連軍最高司令部との合意に基づきーここに命令する。即時戦闘を中止せよ。ヴァイトリング 前ベルリン防衛地区司令官”

ペーター…手をつなぎ、自転車

1945年5月7日 ドイツ降伏
“8日24時 全戦闘終結”で合意
大戦の死者は5000万人を超え-
600万人のユダヤ人が
収容所で殺害された

G・クリスチアン
脱出に成功
1997年 デュッセルドフルで死去

E・G・シェリンク教授
ソ連軍に拘束 1953年釈放
1998年 アーヘンで死去

W・モーンケ少将
ソ連軍に拘束 1955年釈放
2001年 ダムプで死去

H・ヴァイトリング防衛司令官
拘束下の1955年死去

W・ハーゼ教授
地下要塞の病棟でソ連軍に拘束
1945年死去

O・ギュンシェ
ソ連軍に拘束
1956年 東独の刑務所を出所
2003年死去

H・ライチュ
戦争を生き延び 1979年死去
飛行の世界記録 多数

R・R・フォン・グライム
1945年5月24日 ザルツブルクで自殺

H・リンゲ
1955年釈放 1980年死去
J・ヘンチェル
1949年釈放 1982年死去

G・マンツィアリー
逃亡中 ベルリンで消息を絶つ

A・シュペーア
ニュルンベルク裁判で禁錮20年
1966年釈放 1981年 ロンドンで死去

カイテル元帥 ヨードル大将
ニュルンベルク裁判で死刑

H・ゲーリング
死刑判決を受けるが執行前に自殺

H・ヒムラー
偽名を使って難民を装い
脱出を図るが発見され自殺

M・ボルマン
L・シュトゥンプフェッガー
1945年5月2日 市内で自殺

R・ミシュ
1955年 ソ連の収容所を釈放
ベルリンで存命

T・ユンゲ
罪には問われず
民間で秘書を続け
2002年死去

実際のユンゲのインタビュー(告白)
「ニュルンベルク裁判で恐ろしい話を聞きました
600万人のユダヤ人や-
人種の違う人々が無惨に殺されたと…
これらの事実は-
大変ショックでした
でも私はそれを自分と結びつけられず-
安心していたのです
“自分に非はない”
“私は何も知らなかった”
そう考えていました
でもある日-
犠牲者の銘板を見たのです
ソフィー・ショル
彼女の人生が記されていました
私と同じ年に生まれ
私が総督書紀になった年に-
処刑されたと
その時私は-
気づきました
若かったというのは言い訳にならない
目を見開いていれば-
気づけたのだと」

20230726 631
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