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ゲド戦記のimurimuriのネタバレレビュー・内容・結末

ゲド戦記(2006年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

あんまりジブリっぽくなかったという意味では低評価も納得の作品。
しかしながら、個人的にこの映画は皮肉抜きですげぇ作品だと思う。この映画の悪いところは多くの方がすでに山ほど指摘しており、ほぼほぼ出尽くしているので、このレビューでは映画のよかった点にフォーカスして書くけれども、まずこの映画のすごさを端的に言えば、この吾朗版ゲド戦記は、アースシー映像化の唯一の成功例(実写版があるけどあれは酷くて話にならない)であること、グウィン以外の人間による初の独自のアースシー(とその物語)の創造(と解釈)であること、主にこの二点に尽きる。

そもそもゲド戦記って原作があまりに偉大すぎる作品(世界三大ファンタジーに数えられてるし、例えば宮崎駿は自身の作品の全てにゲド戦記の要素を散りばめているし、かのスターウォーズにテーマが受け継がれていたりもする)なので、普通の人間なら例えクリエイターであっても映画化(それもアニメで)しようだなんて思えないような代物だよね、それが色んな意味であまりに途方もなく難しいことであるってわかってるから。そこをやっちまえる自信があったのがかつての若かりし頃の宮崎駿であり、鈴木プロデューサーであり、そして宮崎吾朗であったと。そしてそれを監督という立場で見事に実行してしまえたのが、宮崎吾朗であったという。
ただまぁ、やろうとしていることが小説ゲド戦記の単なる映像化なら、そこまで難しいものでもなかったとは思うけど。吾朗版ゲド戦記がすごいのは、原作を踏まえて、かつ、オリジナルの解釈もしっかりと埋め込みつつ、それでいてしっかりとアースシーを描き出したってところ。グウィンは批判のつもりで「あれは私の小説ではなく吾朗のアニメだ」というようなことを言っていたらしいけど、むしろその点を積極的に評価したい。またグウィン自身、映画中の農耕シーンなどを指して「あれはまぎれもなくアースシーだった」と評価していることも考慮すると、宮崎吾朗が、成功するわけがないゲド戦記の映像化という仕事を一定のレベルで遂行したと考えても良いと思う。
吾朗版ゲド戦記は、原作第1巻と第3巻を基底に、第4巻のテルーをプラスして、そこに原案としてシュナの旅の構図をぶち込むことでああいうストーリーになったわけだけど、第1巻における光と影の関係構図を模倣するのではなく、それを踏まえつつオリジナルの関係構図(死ぬことを恐れる=生きることを恐れる→自分のなかから光を追い出す、そしてそれが影となって追いかけてくる。尚、ここで光とは、死の恐怖と折り合いをつけた上で積極的に生きることに向かう意志みたいなもの)を構築した点は、もっと評価されてもいいと思う。
また、バトルアクションアニメにしなかった点も評価できる。古典的魔法使いモノは、激しいぶつかり合いみたいな戦い方をしないもので、そこをちゃんと踏襲してたのはよかった。その上で、冒頭のアレンと動物との対峙や、ラストのアレンの覚醒と剣技は時間的には一瞬だけど圧倒的な迫力があって、めっちゃよかった。
あと、プロローグで父親を刺したあのシーンの意味や必要性がよくわからないと一般的に言われてるけど、個人的にはあのシーン、均衡の崩れつつある不安定な世界で王の息子として生きるアレンが抱えているであろう将来とかへの有耶無耶で漠然とした恐怖とか不安とか希望の無さみたいなものに説得力を与えているという意味で不可欠なシーンだったと思うんだよな。
あと、音楽が最高に良いってのも評価の高い点。テルーの唄は歌詞に色々問題があったけど、それについてもあの楽曲と楽曲の使われたシーンの秀逸さを傷つけるものではないし、エンディングもBGMもすごくよかった。アースシーを見事に色付けるパーフェクトな音楽だった。
あとすげぇのは、宮崎吾朗はあれがアニメーター監督としての最初の作品だったってこと。
そういえば、劇中登場する竜の造形がキモいと言われてて評判悪いっぽいけど、あんなにオリジナリティあって、かつゲド戦記の世界像を損なわない造形、ほかに考えつかないんだよな。今まで色んな竜やドラゴンの絵を見てきたけど、あれほどアースシーの空飛んでて違和感無い奴は思いつかない。その意味じゃ大正解の造形だったと思う。
それと、テルーがちゃんと物語の展開に絡む活躍をしてたのがよかったし、あと何と言っても、アレンとテルーが真の名を伝え合う(これがどれだけ勇気と信頼のいる尊い行為であることか、詳しくは原作参照)あのシーン、最高に美しかったしうおおおおぉぉってなったしほんとよかった。あのカタルシスは最高のクスリだった。
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