ガンビー教授

悪人と美女のガンビー教授のレビュー・感想・評価

悪人と美女(1952年製作の映画)
-
しまった、また傑作を見てしまったな。

監督、女優、脚本家という3人の回想視点から、かつて一時代を築いた(そして、今はおそらく落ちぶれている)ジョナサン・シールズという大物プロデューサー(カーク・ダグラス)の実像を、市民ケーンよろしく浮かび上がらせるという構造の映画。そのプロデューサーと彼らはかつて友人関係にあり、そして誰もが最終的には喧嘩別れのような形で関係が途絶えているらしいことが分かる。彼ら3者が集められたのは、話題の中心であるプロデューサーが自身の再起をかけて新しい映画を作りたいと構想しており、そのためにシールズが最も適任と考える人間たちに連絡を付けたためであり、それが映画の発端である。

このプロデューサーは人に取り入るのがうまく、同時に人間としてどこか欠落したものがあり(故に友人だったはずの人を傷付けていく)、更には感覚的に映画というものを勘よく理解してもいる、つまり才能はあるだけに厄介な存在でもあるのだが、彼という人物には、華やかさと虚栄を兼ね備えた、自転車操業のような側面も持つ映画産業そのもののやくざな有り様が象徴されている。三様に回想される過去の思い出というのは、集められた彼らにとっての青春の記憶でもあり……彼ら自身の人生における最良の時期の記憶と最悪の印象が綯い交ぜになっているところが重要で、それはまさにこの映画の監督や脚本家がもつ映画産業というものへの印象から来ていると想像できる。

同じMGM製で同監督ヴィンセント・ミネリが手がけたバックステージものの傑作『バンド・ワゴン』のことを考えずにはいられない。あれはヴィンセント・ミネリから、映画(エンターテインメント)に携わる同業者へ向けられた花束のような映画だった。それと比較して考えるとこの『悪人と美女』はぐっと当事者性が高まっていて、どこか軽薄でいんちきな業界へ向けられた生臭い描写に実感がこもっている。また『バンド・ワゴン』がひとつの舞台を作りあげていく物語だったのに対し、本作はまさしく映画そのものを題材に採っていることもあり、所々に作り手の映画観ないし映画論めいたものが表出してくるのも興味深く、それはシールズが初めて成功を掴むくだりや、初めて決定的な失敗(そしておそらくは凋落の始まり)を経験するあたりなどに如実に表れている。

バンド・ワゴンでは、登場人物たちが心血を注いで作り上げた舞台に対する観客のリアクションは映されない。それは誰にも分かるものではないからである。どれほど血の滲むような努力と強い思いの元に作り上げられたものであってもそれが「受ける」かどうかは誰にも分からず、ただ観客に問うてみることしかできない。そこで観客のリアクションを切っていることによって『バンド・ワゴン』は安易なハッピーエンドを回避していると思うのだけど、『悪人と美女』は一層シビアで、シールズが画策しているという新作も今後作られるのかどうかさえ分からない。というか作られない可能性も高いのだが、「たぶん作られないけど、ひょっとしたら作られるのかもしれない」という一縷の光めいたものが見えたところで映画は終わりを迎える。そこで我々は、映画人にとって映画とは、そのほとんどが「作られるかどうか分からないもの」なのだ、という単純な事実に思い至ることになる。我々にとって映画とは既にそこにあるものでしかないが、映画人にとってはそうではなく、作られた映画たちもまた映画人たちにとっては全然別の見え方をしている……それら全ての背景には、関わった人達の人生の一部分が重なっているのだ、ということ。

で、アカデミー賞というものを過大評価するつもりもないのだが、当時アカデミー五部門を受賞しているわけで当時において相応の評価を受けたこの重要作が、『サンセット大通り』や『イヴの総て』ほど見られている気がしないのは何故なのだろう……というか、レンタルショップにもほぼ置いてないし、最近まで名前を知らなかった(言及されてるところを聞かない)し、あまりこういう言い方は好きではないけど「埋もれている」傑作と言えばいいのか……これも間違いなくこの時代(50年代)の重要な映画なんで、最近知った自分が言うのも何だけど、もうちょい多くの人に見られるべきなんじゃないかな……というのが作品を見た率直な感想。

ちなみに自分は以下の商品を買って見ました。事前の想像よりは画質も悪くなかった。

https://www.amazon.co.jp/dp/B07CG8SSY7/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_ONLBCbTS35PZB
ガンビー教授

ガンビー教授