きゃんちょめ

ロスト・ハイウェイのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

ロスト・ハイウェイ(1997年製作の映画)
5.0
【ロスト・ハイウェイについて】

この作品、明らかに作品内時間がループしていますが、それは電気椅子に座っている男が頭の中でひたすら「こうやったら逃げられたんじゃないか」というような妄想を堂々巡りで繰り返しているからで、最後に男の体に電流が流れて燃え出すのはあのタイミングで現実世界の男の電気椅子に電気が流れたせいで、男がもうそれ以上堂々巡りしている逃避行の妄想を続けられなくなったから、という解釈があり、これが一番、一般的で、整合的だと思います。この解釈を取るなら、この映画の刑務所のシーン以外の全てが電気椅子に座っている男の妄想だということになりますね。

リンチ映画はどこまでも複雑化する。オープニングのアバンタイトル、夜の高速道路の疾走シーンの時点で、あまりの映像的なスタイリッシュさに度肝を抜かれる。漆黒の闇の中にDavid Bowieのテクノポップが流れてきて、真っ黄色な字で、LOST HIGHWAYという文字が出てくる。ビビるほどかっこいい。オシャレ過ぎるだろデビッド・リンチ監督。

てかもうこの映画は、黒と黄色のポスターのデザインからしてもう既にかっこいい。

しかも、高速道路の真ん中に白い二本の直線がずっと並行して走っているのは、ふたつの並行世界を表現しているように見える。とにかくスタイリッシュなオープニングである。映画が始まって、たった2分間で、衝撃を受ける。

まず、主人公フレッドの家の家具の形とかレイアウト(配置)とか間取りとか、全てがスタイリッシュ過ぎて、「なんだこの家は」とずっと思っていたら、この白い家は、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルの近くにあるデヴィッド・リンチが実際に住んでいる家らしい。なるほど、オシャレな家である。

異常な火力の暖炉とか、顔だけが遍在老人「ミステリーマン」になってしまったレネエとか、異様に太った刑事とか、ガラステーブルと頭部が結合している人体の映像とか、序盤から最後まで、いちいち画面に映るものが面白い。「モア・ダークのリンチ」というだけあって、暗い画面のつくり方でリンチの右に出るものはいない。交通安全ヤクザも最高である。

音楽も端的に最高であって、どの音楽も素晴らしいが、全体的に、David Bowieの音楽がフィーチャーされているところがものすごくセンスが良くて、ガレージでピートとアリスが改めて出会いなおすところなんかスローモーションのバックにかっこいい音楽がかかっていつまでも見ていたくなるような陶酔感がある。

この映画については、3つの解釈がありうる。⑴「現実逃避の妄想(=サイコジェニック・フーガ)解釈」と⑵「パラレルワールド解釈」と⑶「変身説」だ。

この映画に関する一番よくある解釈は、「現実逃避の妄想世界を描いた映画だ」という「サイコジェニック・フーガ」(Psychogenic Fugue)解釈である。つまり、フレッドが独房の中で、逃避的に、頭の中で作り出した妄想・幻想が、「自分がピートである」という映画後半のノワール世界だったという解釈である。また映画前半の映像もレネエとうまくいっていたらこうだったはずだというフレッドの妄想だという解釈である。夢の中で送られてきていたビデオテープだけが現実を映したものだというわけである。

この解釈⑴は、分からない話を合理化しようとしている。もちろん、序盤にフレッドが、「私は自分なりのやり方でものごとを記憶していて、客観的な記憶などしないのです」と言っていることとか、ダブルのウィスキーを二杯一気飲みした瞬間に音楽が止まって白塗り遍在老人の「ミステリーマン」が現れることは主人公がアルコールによって幻想を見やすい体質であることを表しているとか、ピートはサックスの音を聴くと現実を思い出してしまい頭が痛くなることなどから、フレッドは「信用できない語り手」であると考えることは容易である。

「フレッドはアル中なので、フレッドの頭痛は、酒を絶たれた禁断症状のようにも見える」とか「ピートが主人公の映画後半のノワール世界はまるで三文小説のように作り物感があるので、現実ではなくフレッドの妄想である」とか「実はO・J・シンプソン事件が関係している」とか言えばなおさらこの解釈⑴は補強できるだろう。

逆に、自動車修理工のピートが、「自分がサックス奏者フレッドである」という夢を見ていたという解釈⑴の亜種もありうるが、それも微妙である。

それよりもずっと面白い解釈⑵は、宇宙が実は複数個存在しており、(実際、リンチの映画では、マルチバース説、つまりパラレルワールド説を取った方が、リンチの後年の作品でマルチバースが扱われている『ツインピークス』などとの整合性が高い場合もある)、「フレッドとレネエの世界」と「ピートとアリスの世界」はあの独房において交差してしまい、そこでフレッドとピートは相互に入れ替わり、フレッドの世界にピートが行ってしまい(←本作で描かれていたのはこっち)、ピートの世界にフレッドが行ってしまった(←こっちは映画内では描かれてない)という解釈⑵である。

独房に走ったあの青白い光は、並行世界どうしが交わってしまったときに出る光であり、高速道路の映像の二本の白い平行線はふたつの並行世界を意味する。以上がパラレルワールド解釈である。

また、次のような解釈⑶もありうる。変身解釈である。ひとつしかない世界の中で、フレッドがピートに本当に身体的・物理的に変身してしまった、という解釈である。

しかしその場合、レネエは、アリスと同一人物だとすると、ミスター・エディ(=ディック・ロラント)の愛人のアリスでありつつ、フレッドの妻のレネエでありつつ、ピートの恋人のアリスでもあったという、同時に三役をこなしていたことになるのだが、もしアリス(=ミスターエディの愛人)とレネエ(=アンディの恋人でフレッドの妻)が顔がよく似ているだけの別人であったとしたら、この解釈はますます可能である。実際、劇中で映る写真には、アリスとレネエのふたりの女が一枚の写真に写っている。

ただ、ひとつ不可解なことは残る。フレッドが家のインターホンで「ディック・ロラントは死んだ」という音声を聞いた時点で、まだディック・ロラントは死んでいないはずので、時系列がおかしくなってしまう。だって、ディック・ロラントが死ぬのは、フレッドがピートに独房内で変身してからしばらく後なのだから。これだと、自分の尾を噛む蛇のように、時間が無限ループになって、回転しちゃうのではないか。つまり、変身説はループ説になってしまって、論理的に破綻してしまうような気がする。

ディック・ロラントとはミスター・エディのことで、ミスター・エディと組んでポルノ撮影をしてるのがアンディーだった。そのアンディーに「ディック・ロラントは死んだ」と伝えれば当然動揺するだろうが、それは、未来のフレッドから過去のフレッドに向けて送られてきたインターホン・メッセージを過去のフレッドが聞いていたからできたということになる。

では、なぜ未来のフレッドは「ディック・ロラント(=ミスター・エディ)は死んだ」という言葉をインターホンに吹き込んだのか。過去の自分を助けるためかもしれない。

アンディーとレネエがフレッドに内緒で浮気している可能性もあるし、ピートのそもそもの恋人であるシーラは、結局どうなったのだろうか。

謎は深まるばかりである。しかし、こうやって考えることがとても楽しいし、全てのシーンが魅力的な、最高の映画である。
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