きゃんちょめ

天井桟敷の人々のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

天井桟敷の人々(1945年製作の映画)
5.0
タイトル:『天井桟敷の人々』がどうして詩的レアリズム映画群の中でも特異的な傑作なのかを再解釈する。


1.冒頭シーンと問題提起
ファンファーレとともに劇場の垂幕が現れる。メインテーマが流れ垂れ幕にはスタッフロールが浮かび上がり、フランス映画史、いや世界映画史に巨大な足跡を残した3時間17分の幕が上がる。垂れ幕の向こうに現れるのは犯罪大通りである。運命を擬人化した男(ラスネールは劇中で彼を「最後の審判」と呼ぶ)、古着屋のジェリコ(ピエール=ルノワール)が群集の雑踏の中から現れる。今日も彼は運命のラッパを吹きながら、この大通りの人間たちの交錯を見ている。この映画『天井桟敷の人々』は、詩的レアリズムの集大成とされているが、本当にそうだろうか。ではそもそも、詩的レアリズムとはなんであったかというと、カルネ=プレヴェール時代(1936-1946)の7本の映画で完成された定義である。ムードとしては、「才気のあふれた詩的な台詞、陰影のある詩的な映像、ペシミスティックな運命のドラマを謳いあげる詩的な抒情、場末の、あるいは裏町の、暗い旅情」であると映画史家ジョルジュ=サドゥールが『世界映画史』の中で述べた(のちにゴダールによってこれは「詩情もどき」と呼ばれることになる)。また、その内容としては、「暗いペシミズム」「重苦しく陰にこもった不安がその主調をなし」ている世界に、「運命に弄ばれ」て、犯罪や死に向かって破滅していく「人生の敗残者」「社会の落伍者」を描く。また、もうひとつ特筆すべき点として、カルネ=プレヴェール作品は必ずといっていいくらい、「運命」を狂言回しにしてドラマが展開する。『霧の波止場』も『悪魔が夜来る』にも『夜の門』でも、また本作においても運命を代弁するようなキャラクターが出てきて、恋人たちは運命によって出会い、運命によって引き裂かれる。しかし、この映画を私が最初に見て感じたのは、なるほどこの映画はいま挙げたような詩的レアリズムの表現に満ちているが、その根底にあるのが“暗いペシミズム”や“破滅”だとはとても思えないということである。また、登場人物も“社会の落伍者”“人生の敗残者”ではなく強くしたたかに生きていた。例えば、ガストン=モド演じる盲目の老人「絹糸」は、本当は盲目ではない。盲目ということにして物乞いで生きていた。その一方で、むしろ貴族という上流階級の人間であるモントレー伯爵はダンディに殺されてしまった。一番安い料金で演劇を見ている「天井桟敷の人々」も、下層階級の人々ではあるが“人生の敗残者”と呼ぶにはあまりに楽しそうに演劇を見ている。つまり、この映画を見おわって誰もが感じることになる人間賛歌的な感慨は、「人間の運命への敗北、ペシミスティックな世界観」ではあるが、しかしもっと上から人生を眺めているかのようでもある。その詩的レアリズムよりひとつ上の高みから、「恋なんて簡単よ」とガランスは艶っぽく微笑んでいたのだ。つまり、本作『天井桟敷の人々』は、限界まで詩的レアリズムの手法を使いながらも、それでいて結論はそれを超えるという逸脱的な映画であったのではないか。これが本論のタイトルにある“再解釈"の可能性である。本論はこのアイデアと、「何がそれを可能にしたのか」を批判的に検証しながら進めていく。また、この映画に関するナチ占領下での南仏での撮影や、キャラクターのモデルとなった実在の人物たちの事実関係、「縮尺を錯視させるために遠くの群集は子供を使った」などの驚くべき撮影技術論は『山田宏一のフランス映画史』に収録されている『フランス映画の金字塔―天井桟敷の人々』などの記事群に非常に詳しいが、本論の主題は事実の確認ではなく、映画史をふまえた我流解釈の提示と、巨大すぎる名画との格闘にあるので、周辺事実の引用はあまりしないし、仮にしたとすると尽くすことができない。なぜなら、この映画は名作だからである。




2.あまりにも演劇的すぎるという逆説

この映画はトリュフォーが嫌ったような、演劇的なセリフ、役者たちのミーム、大掛かりなセットやエキストラに満ちている。これらは豊かな詩情を産み出している。この映画では、第一幕と第二幕の間に、わざわざ画面上に幕まで降りてくる。演劇的であり、かつ、あまりに演劇的であって、画面をみている観客はまるでスクリーンを通して舞台を見ているかのように見えるはずだ。この過度な演劇性にはむしろ自覚的な意図が感じられる。というのも、主要登場人物はみな芸術家である。フレデリック=ルメートルはシェイクスピア劇の役者だし、ジャン=バチストはパントマイム役者だし、ガランスは女芸人だし、ラスネールも牢獄内で『メモワール』を残してからギロチンに向かうような物書きである。換言すれば、この映画が役者じみているのは、(詩的レアリズムという時代の産物だからというのもあるが、)登場人物が役者だからである。そう仮定すれば、「役者が役者を演劇的に演じている」というこの映画自体が構造的に初めから内包する自己言及性や、美しいセリフを日常的に交わすこの不思議な世界が見えてくる。劇中劇や長回しのパントマイムと、登場人物の人生が何度も交互に進められることによって、この作品は演劇のシーンでないところにも演劇性が干渉してきているようだ。また、『アドレの宿屋』というフレデリックが喜劇にアレンジした劇中劇では、第四の壁を破ってフレデリックが観客に話しかけるシーンもあるし、その劇中劇の上演中に演者がその劇の脚本家について言及するというシーンさえあった。極めつけは、本作の終わりに、「運命」である古着屋ジェリコがバチストに言う最後のセリフ「芝居は終わった。おうちへお帰り」である。この本作自体をメタに見たセリフからも分かるように、彼ら登場人物は、他の詩的レアリズム作品とはちがって、自分たちが詩的、演劇的、文学的であることに自覚的すぎるのではないか。この作品の中のパリでは、演劇と人生の区別が付かない。しかも、見ている観客にもそう訴えているかのようだ。そもそも、このパリはセットである。






3.文学から飛び出してきたようなセリフたち

では、たとえばどんなセリフが演劇的かつ文学的かというと、主要なキャラクターそれぞれに名セリフが用意されている。ガランスを口説くフレデリック=ルメートルの「人生は美しい。きみも人生のように美しい」や、「好いた同士にゃパリもせまいさ」。ガランスへの愛が重すぎたバチストは「自分流の愛の注文をつけて、永久に二人を隔てたあのドアを閉じた」とか、「花嫁のいない結婚式よりは葬式のほうがずっとましさ」など、嘆きのピエロというキャラクターに隠喩の多いセリフが貢献している。モントレー伯爵は格調高いしゃべり方で「美はそれだけで醜いこの世への侮蔑です。美は誰にも愛せぬもの。ただ人々は美から逃れるために、美を忘れるために、美を追い求めるだけなのです」と貴族らしいペダンチックなセリフでガランスに迫るし、ガランスは「そんなにお金持ちでいて、貧乏人並みに愛されたいなどと、貧しい人たちから何もかも奪りあげてはいけないわ」と軽くいなす。先ほども述べたが、この映画では、貧乏人にペシミスティックなところはない。彼らの恋のさやあては、(言葉を大切にするフランス人とはいえ、)日常的には使用しない表現によって鮮やかに彩られている。『枯葉』の作詞者であり、フランスのポエジーの代表的詩人プレヴェールが脚本を書いたからだ。

このように、この作品のセリフはとても、詩的である。ロジェ=レーナルトによれば、「フランス映画最高のシナリオライターは詩人であった。」





4.ラスネール、この魅惑的な悪。
ダンディな犯罪詩人ラスネールのセリフは観た観客だれもが一度は使いたくなるような「アブソリュモン」とか「すべて」とか「だけだ」といった断言形とか全称文形の、魔力をもった名セリフばかりである。例をあげれば、「誰も愛さない、絶対の孤独。誰からも愛されない、絶対の自由」「哲学者は死を想い、美しい女は恋を想う」「女は誰のものでもない以上、嫉妬はすべて男のものだ」「俺には虚栄心などない。あるのは自尊心だけだ。」「必要に応じては盗みも、欲望に応じては殺しも辞さぬ、俺の行く道はひと筋。やがては飛ぶ首をまっすぐに立てて闊歩するのだ」「俺の心臓は人並みには鼓動しないのだ、アブソリュモンパ(絶対にな!)」などである。これらのセリフから分かるように、彼の悪は力能に満ちている。そしてこの悪は観客を酔わせ、悪すらも賛美させてしまう。ここが、先ほど提示した新解釈にラスネールも合流しうる根拠である。殺人者すらもこの映画の中では魅力的だからだ。彼の悪はヒロイックでカリスマ的で洗練された悪であり、ガランスに愛を強制するが裏切られるモントレー伯爵の鼻を「演劇的な手法で」へし折る。ここについては次項に譲ろう。



5.「その演劇は既に上演中です。」という台詞


なにが演劇的な手法かというと、モントレー伯爵にどんな演劇を書いているのかと聞かれたラスネールが、伯爵に対して「1篇の劇を書いております。いま最後の筆を置くところです。死を描く情念劇です。通俗喜劇、茶番劇、ま、悲劇とおっしゃるもけっこう。どれも同じことです、違いはありません。いや、少々違いますかな。たとえば、王が裏切られれば、それは忠節の悲劇です。妻に裏切られた男の滑稽な物語とは大違いだ。」と痛烈に言ってのける場面は、シェイクスピアの『オセロ』の上演中なのだ。しかも隣にはその主役であるオセロに扮するフレデリックがいる。オセロは王だが、彼ら言い争う男たちは、ガランスというひとりの女性に翻弄される喜劇役者に見えてくる。ラスネールはすかさず「さよう、それは運命の悲劇なのだ。しかるに、伯爵や私のような愚劣な凡人の場合は―ここで私と言ったのは言葉の綾でしかないが―もはやそれは悲劇ではなく、不貞な妻を持った男のみじめな道化芝居だ。」と続ける。「しかし王でも夫でも生やす嫉妬の角は同じですよ。恋が冷めれば頭から腐れ落ちるあの嫉妬の角はね」とフレデリックが言うと、ラスネールは「角も同じ、恋物語も同じ、涙も同じ、しかし要は面白い劇で作者がまず笑えることだ。」と言う。それを聞いた伯爵が「上演されまい!」と切り返すと「ご安心あれ、上演されますぞ。『いや既にそれは上演中です。』」といって少しカメラの方を見るのである。まるで本作『天井桟敷の人々』はラスネールが劇作家として書いているかのようだ。そしてこう続ける。「さよう。じつに面白い劇です。だが殺人がありますぞ。そして死んだ役者は幕がおりても立ち上がることはない。通俗喜劇の道化役者は俺ではなく、貴様だ」と。そしてカーテンを勝ち誇ったように引きガランスとバチストが抱き合うところを伯爵に見せる。そしてこの後、彼は実際に伯爵を殺しに行くのである。


ラスネールが書いている演劇とはまさにこの現実のことなのだ。ここでもまた、現実と演劇は溶け合っていく。詩的レアリズムとは、「人間の運命に対する敗北」であったはずだ。しかし、この作中においては、運命は自覚され、現実とは演劇的な手法でラスネールによって書かれた通俗喜劇である。登場人物たちは、たしかに運命には敗北したが、人生が劇中劇であることに気付いている者もいるのだ。夫に裏切られたナタリーも、ガランスに去られたバチストも、カーニバルの狂騒、軽快な音楽の異化効果の中でかき消されていく。追いかけるバチストを流す無数の群集と紙吹雪は、人生という所詮演劇に真剣になってしまった恋人たちをまるでパリが「セラヴィ」と忘れさせようとしているかのようだ。このパリがただのセットであり、群集が全員本当は南仏に集められたエキストラであるのとちょうど同じありかたで、パリの群集は役者でなければならない。そう、この映画は訴えている。上からは冒頭と同じ垂れ幕が降りてきて、今度は舞台の全景が映る。この舞台で上演されていた演劇こそ『天井桟敷の人々』であった!

こうして本作が三重の入れ子構造だったことは、はっきりと観客に示されるのだ。

世紀の傑作に拍手を送る。
ありがとう。

2016年7月20日
きゃんちょめ

きゃんちょめ