みかんぼうや

十二人の怒れる男のみかんぼうやのレビュー・感想・評価

十二人の怒れる男(1957年製作の映画)
4.0
【圧倒的なプロットの前には、余計な演出や場面変化など一切不要。12人の男の議論をただ見続けるだけなのに、そのサスペンス性の妙味と決めつけや同調圧力に対する皮肉をたっぷり堪能】

古典的名作と名高い本作。昔からずっと観たいと思っていたが、レンタルでも機会を逃し、配信もされておらず・・・と思っていところ、アマプラでレンタル配信していることに気づき、即レンタル配信クリック!あまりにも慌てたもので、気づいたら“日本語吹替版”を購入してしまい、初めてアマプラのキャンセル機能を使わせていただきました。気を取り直して、“字幕版”をレンタルしました。

しかし、これは凄い。90分程度の短尺とはいえ、作品の99%はある一部屋で12人の男たちが会話しているだけ。場面の移動も話題の切り替わりも一切ない。もっと言えば、同じような話を延々繰り返しているだけなのだ。なのに、一切飽きさせない圧倒的なプロットに脱帽。

その12人の男たちとは、米国の陪審員制度で選ばれたお互い素性も知らぬ12人の陪審員たち。担当することとなった裁判は、ある19歳の少年が父親を殺害した容疑にかけられたというもの。有罪であれば死刑が確定する状況。裁判が終わった瞬間から物語は始まる。彼は有罪か?無罪か?12人の怒れる男たちの喧々諤々とした議論がここに始まる・・・

そう、この喧々諤々の議論を実に90分見続ける、という映画だ。ほぼ1シーンでの会話劇で成り立つ映画はこれまで何本か観てきたが、残念ながらその多くは途中で集中力を切らし飽きてしまうことが多かった。しかし本作は全く逆だ。話が進むにつれて、どんどん会話の中身への興味が増していき、ますます惹かれていくのだ。

それは、1対11から始まる陪審員の構図が、激しい議論の中で状況が徐々に変化していく痛快さとともに、会話の中で徐々に見えてくる事件の全貌という、サスペンスとしての面白さの両輪による見事な脚本ゆえと言っても過言ではない。

そして、そのサスペンス要素の中に、人が持つ安易な“決めつけの怖さ”、“偏見”、“同調圧力”に対する警笛が内包されているのもまた本作の魅力だ。不確定的な目撃者の情報や裁判にかけられている少年の出自から、“有罪=死刑”と分かりつつ、各陪審員が各々の理由で早く議論を終わらせたいことから、自身の直感で「有罪」と決めつける姿は、“自分とは一切関係のない赤の他人の命よりも自分たちの目の前の小さな幸せを大事にする”人間の本性を描くようでなんとも皮肉的だ。そんな人間たちが、“あらゆる可能性”への検討を通じて、変化していく様子もまた見物である。

本作はアメリカの陪審員制度を描いた作品だが、日本でも十数年前から裁判員制度が導入されて、一般の人々が判決に関わるようになった。日本の裁判員制度のドキュメンタリーや特集などをテレビで観た記憶がほとんどないが、実際どのような人々が、どのような力関係で議論をしているのか、本作を観て大変興味が沸いた。

派手な演出ゼロ、場面の移り変わりゼロ。それでも、実際の事件現場を映すことなく会話だけで事件現場が頭の中でクリアに見えてくるほどの緻密なプロットがあれば、これだけの魅力的な映画として仕上がる(もちろん、それに応える俳優陣の演技も素晴らしいのですが)。それを優に証明する会話劇映画の金字塔にして屈指の歴史的傑作だ。
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