わたP

トウキョウソナタのわたPのレビュー・感想・評価

トウキョウソナタ(2008年製作の映画)
4.5
恥ずかしながら黒沢清作品を初めて鑑賞したのですが、これまで見てこなかった自分に大変後悔しております。「佐藤健と綾瀬はるかのそんな売れ線とか興味無いし〜」「どうせオダギリジョーと浅野忠信のお洒落雰囲気映画やろ〜」などと思っていたのですけれども、はい、そちらも見させて頂きます。はい。

で、この映画ですが、物語が始まるにつけ、なにか画面全体を支配する妙な雰囲気を感じます。僕としてはそれは空虚感であるように思うのです。恐らく、佐々木家の父(香川照之)の世代はバブル期に就職をした為に特に苦労をせずに今の地位について、電車がそばを走るようなマイホームや、父親が「いただきます」というまで箸をつけないような家族感と父の権威を獲得します。
しかしそれはなにも彼が彼の力で獲得したものでなくて、そのような父親像や社会人像が蔓延していてそれをなぞっているにすぎません。
そんな父はリストラされハローワークや炊き出しの列に並びます、そこに居るのはRPGの街人のような空虚な人達ばかりで、父もまたその中の一人であると示しているように感じます。また劇中で香川照之はスーツ姿か清掃員の作業着、つまり制服のような他者と同じ格好しかしていません。それもまたこの映画の空虚さを演出しています。

母(小泉今日子)もまたそんな空虚な家族の中で母親を演じているのですが、彼女は自分ではっきりと「母親役」であると息子に語ります、だからこそ虚しさが滲み出て、終盤の逃避行に走るのです。しかしその逃避行もまた空虚なものであると悟ったような表情にラスト手前のシーンは感じました。

その家族で育った息子たちもそれぞれ、突然途方も無い世界に飛び出そうとする兄や、大人のずるさや欺瞞をどこか悟っている弟で、世代性や社会性を表しています。
ただ彼らはきっちりと最後に希望を示してくれます。
彼らがその世界に進む動機は短絡的なものでしたが、それは空虚で微妙なズレを孕むこの社会のようなものに彼らなりのしっかりとした答えを記すことに結実するのでした。


と、ここまで家族の話をしましたが個人的な白眉は津田寛治が炊き出しの列に取り込まれるように歩いて行くシーン。あれはもう1つ可能性のあったエンディングに向かう暗示をしていてぞっとしました。
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