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彼女について私が知っている二、三の事柄のarchのレビュー・感想・評価

4.0
『男性、女性』に引き続きジェンダーのニュアンスを感じさせる題名である本作は、パリという都市を"彼女"として置き、ある主婦(かつ娼婦)の一日をドキュメンタリックに描くことで、個を通して全体を撮る試みが行われる。作中においてはっきり述べられているように「私は世界であり、世界は私であるような…」という話なのだ。ここでの360°パンは印象深い。
ゴダールは結局「映画についての映画」を撮る人であり、本作もまたそんな作家性から生まれた「映画であることを自覚している映画」である。それを思わせる場面は幾つかあり、断片的にしか解釈できていないのだが、興味深い下りは3つ。

1つは表現と感情、行動原理の話。
抜粋する。
「感情が対象と必ず結びついているとはかぎらない
表現で対象と結びつかないなんてことあるかしら
何かが私を泣かせることはあるけれど、頬の涙の跡には表れていない」
これは対象を撮ることで感情が必ずしも描ける訳ではなく、また対象を撮ることは必ず"表現"となりうるが、そこに至ル行動の原因を把握することが出来ないという、"映画の限界"について語っているのだ。
つまりその対象をそのままに撮っても本質的な部分を伝えることは不可能ではあるということなのだろう。だからこそ彼は非常に回りくどい方法で、個から全体への接続を試みているのかもしれない。

2つ目は事物と人間を同時には撮れないという下りだ。木の葉っぱの揺らめきとある女性の一瞬は同時に語ることは出来ない。前後してそれらを語ったとしてもそれは既に「記憶」と「現在」で別の話になってしまう。撮るという行為が切り抜く一瞬は、1つしか移すことは出来ない、そんな"映画の限界"がここにも現れている。しかしながら面白いのは、芸術家たるナレーションの彼の理想である事物と人間の融合は本作で成されているのだ。
例えば、ガソリンスタンドで車にガソリンが注がれるシーンは、SEXを連想させ、娼婦の彼女とそのガソリンスタンド(あるいはSEX)という事物を融合させる。また娼婦として部屋に訪れた彼女達は頭にカバンを被せられる。非常に惨いモノ化された光景であり、そこにもまた最悪な人間と事物の融合が成されている。ゴダールの『コケティッシュな女』から続く娼婦への興味は、この人と事物の融合の部分にこそあったのだとなんだか納得できる。(最低と言わざるを得ないが)

そして3つ目。言葉で発音することと頭で連想することの違い。
「私は夫と会う約束をした」という言葉を発音することはそこで完結してしまうが、頭で考えるときそれは、「映画」となる。つまり映画とは言葉にする以前、或いは出来ないことを形にする芸術であり、逆説的に言葉することは不可能だという感覚ごここにはあるような気がするのだ。夫と合う約束を思い浮かべた時、ピンボール台のやかましい音や隣の席の女性、向かいの席の男女の会話まで連想される。そういった一から膨らむ様というのもどこか個から全体という図式に当てはめられる気がする。


ラストは2つ目の融合の話にも通ずる、薬の箱やらで作られた"都市"を映す。そこにあるのは米国を思わせるもの。通底して描かれるベトナム戦争への抗議の姿勢は、この映画が非常に遠回りな方法で達しようとしたゴールなのだろう。しかし彼女の表情によってこの映画の雰囲気が一切好転しないように、本作は一切の
希望を感じさせない。特にここまで積上げてきた思考の過程や結論、想いなどが一日の終わりに寝ることで無に帰り、再出発することになるのは、ゴダールが頭の中で考えてるだけの自分への自虐的なものすら感じさせた。

難解かつコラージュであるが故に汲み取れてはいないが、「分からない」を「分からない」まま感じ取る快楽の中では自分はかなり好きかもしれない。
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