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処刑の丘のニューランドのレビュー・感想・評価

処刑の丘(1976年製作の映画)
4.1
映画的昇華のひとつ手前で、踏み留まった客観ショット・主観ショットが続いてゆく。全てはありがちの内容であり、ありがちの展開の範囲内である。しかし、私はこんな映像・トーン・肌触りに接したことがない。そして、その感触は私が嘗て生きてきた時間・空間の中に存在していたものと共通した何かだと思い当たる。
無私的な無人の風景(らの連ね、初終括り)、そこへの人(ら)のあらわれ、人達の塊り内での手持ちの別の人の背へのパン・動く人の捉え追い(短い)移動・外からの人のフレームインらの様式を抜けたフィット同伴、人(ら)の歩きとフォローするカメラのスピードのズレのリアル同行感、縦移動の求心性外のもの、全ては映画に貢献しているのではない。別のより、生きている者たちに沿い映画を超えて存在させている。雪の原野・森、民家内の建て込み、象徴を超えた処刑場の原風景等の何か美学無縁の不可思議空間で。
無人の主観・抽象移動ショットの寒々さ、人と人のおかしな強引すぎる真っ当切り返し(CU)の力以上のもの、照明の強烈すぎる切り換えの象徴性とは別の違和。微細でヴィヴィトで生に直に響いてくる奥底からの音響・音楽。パルチザンもドイツ兵も対独協力者も、自己と愛する者の生命を守る為大義を捨て屈し生き延びてく者も信念と誇りに殉じる者も、悔いの幻想を抱くかどうかの差異だけで、同じ熱度のこの映画固有の時空を共有している。対称パターンを超えて泳ぎ方・潔さに下地~外形の載せがあるかだけで根は繋がる、二人のメインの男の行動と思索の目的は逐次狭まっていって、隊の為、目の前の友の為、そして自己の内なるものへと、明確に突きつけられてくる。それを推し進めてく位置のタルコフスキー作品で見かける俳優さんの迫力も、同格のウェイトに収まってる。
人物の変容、時代の非情さ、様々な対称、を観るべき映画かもしれない、しかし、私は一瞬一瞬の表現選択の反(半?)表現的現れに目を見張り続けた、そこを生きた。
いまひとつ、後半の一方での押しつけがましさをそのままに取ることもできるわけで、基本ベタなのでは?そこへの距離を図ってて結果たまたま稀なる形象を示したのでは?という懸念がなくもなく、この作家の他作を観てみたい。女流という言い方は嫌だが、澄んだ美の世界へ走らぬは、高度の知性によるものなのかどうか、知りたい。 『空軍』『爆音』『暁の偵察』『さすらいの大空』『つばさ』『華麗なるヒコーキ野郎』等は私のフェイバリトムービーといったところでもあり、『翼』をいつか観てみたい。
【2022.06.17鑑賞時感想は、『灰色の石の中で』欄で】
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