【私がいま書いている陰謀論研究の冒頭】 鼻に綿棒を突っ込まれてから10分ほど経ったころの話である。私は、「はーい、コロナ陽性でーす。5日間は自宅で安静ですねェ。」と言われ、むこう1週間ほどの仕事の予定が全て崩壊することを直感し、軽いショックを味わった。私は風邪を引かないことについては絶大なる自信があったのだ。私がかつて、体育会水泳部に所属していたので、肉体がいまも丈夫だから、ではない(体育会水泳部にいたころは逆に、大会当日に高熱で倒れ、病院に搬送されたことがある)。予備校講師の仕事をしていたからである。この仕事を始める前には風邪を定期的に引いていた。しかしそれらは、よく考えたら仮病だったのではないかと疑うくらい、いまの仕事を始めてからは、風邪をパタリと引かなくなったのだ。やるべき授業を飛ばす(=すっぽかす)と、子どもたちにメールをせねばならず(そのメールを誰かに代筆してもらわねばならないかもしれず)、しかもスケジュールを変則化させてまで、学期末にそのぶんの補講をやらねばならない。そうするとその補講日は変則的曜日になるので、出れない生徒が現れて、生徒ごとの個別対応を迫られるかもしれず、そうすると学期末のテスト結果にも影響が出るかもしれない。私の個人的経験則からすれば、いまの仕事を始めると、本当に風邪の頻度は激減していた。風邪を引くかどうかは実際には大部分、気合いの問題なのではないかという、私があれだけ嫌っていたはずの体育会系的な精神論がなぜかリアリティを持つほどに、私は風邪を引かなくなったのである。これは私が鈍感なおバカになって気付かなくなったのか、気づいても無意識に風邪であることを否定するようになったのか、それとも本当に私は気合いによって免疫力が著しく向上したのか、分からない。「風邪を引いたらどんだけ面倒か気づいていれば、ちょっとした頭痛くらいの体調不良で授業を休むなんてことはしないはずだ。頭痛なんかよりずっと面倒なことが、頭痛を理由に休むと待っていると想像すれば、軽い頭痛くらいは無視できるよね」というようなことを私は思っていた(し、誰かにもしこんなことを言っていたとしたら本当にごめんなさい)。とにかく、「予備校講師は風邪を引かない」、という物語の中で私は生きていた。「馬鹿は風邪を引かない。ところで私は馬鹿である。故に私は風邪を引かない。」という三段論法よりも説得的な物語を私は生きていた。ここでいう物語とは、事実かどうかとは独立にモデルとして承認される言説のことである。しかし、コロナになったのであった。塾講師とは別に、家庭教師もやっているので、「すみません、今日は行けなくなりました。あと次回も無理そうです。ステイホームするからです。コロナでした。」とメールを打たねばならない、「ああ俺はもう終わりだ」、と思いながら診察室のスリッパを棚に入れたとき、ふと閃いた。「私はいまやエビデンス付きの病人だ。病人だとどうなるか。同居人に優しくしてもらえるぞ。しかも濃厚接触者となった同居人はリモートワークになるから、ずっと看病してもらえるぞ。朝から仕事もせずに、ずっと寝ているだけで、布団でアイスが喰えるだろう。いよーし!」との考えが閃いたのである。ニヤニヤしながら診察室を出ると、同居人がおり、ニヤニヤしていた。私のニヤニヤを見て即座に私がコロナだと察した同居人は、「嬉しそうですねぇ」と言った。このあと同居人には私のコロナを移してしまい、散々な目に遭わせたのだが、それについては多くを語るまい。私がこの経験において注目したいのは、大小さまざまな物語というものの日常生活の中における活発な働きである。「予備校講師は風邪を引かない。」などというのもひとつの物語であるが、実は後半に出てきた、「たまには風邪を引くのもけっこういいかも」というのも物語をベースにした閃きである。どういうことか。私は同居人にお願いしてフランス語の絵本の読み聞かせをやらせてもらうことがマイブームとなっており、直近で読み聞かせをやった『Lisa est malade』という絵本がこのとき私の念頭にはあったのである。この絵本がどういう話かを一瞬で要約しておく。「長靴が嬉しくて、水たまりで遊び過ぎたリサは、案の定、風邪を引く。風邪を引くと両親のベッドでテレビが見れて、喉に良いからとか言って、父親がアイスを食べさせてくれる。それを知ったガスパールはリサに風邪を移してもらおうとし、ふたりは、また雨が降ったら風邪になろうと約束する。そして、また雨が降り、ふたりは水たまりに今度は長靴なしで入っていくのであった」というような話である。私はこういう絵本を想起しながら「たまには風邪を引くのもけっこういいかも」などとニヤついていたわけである。同居人にも、私のそのマヌケな想起内容が直ちに分かったのだろう。既に承認済みの物語を下敷きにしながら、自分をなぞらえながら、いやもっといえば、物語の中を、生きるというのは、こういうことだと思う。個別事象の意味づけに、そのひとが念頭に置いている大小の物語が影響してくるのだ。そして、ふつうその物語というのは、大き過ぎない規模のもので、どんな事象も見境なくその物語に回収できたりはせず、かつ、他の物語との共存可能性、つまり複数性に開かれてもいるものなのである。これが健全な物語というものの姿である。例を挙げてみよう。「実家に金をもらうわけにはいかないんすよ。なぜなら、それは、俺が親にあんだけ反抗したのに、結局は負けちまったってことになるでしょう」と私が語ると、高校で一番のひょうきんものだった先輩は、「父母に逢うては父母を殺せだよォ。親からもらえるものは親からもらえるだけ、もらえるうちにもらっとけェ。恩返しなんて土台無理な話じゃん。お前が頼らなくたって、頼ったって、関係ねェ。根本がもう依存してんだねェ。」と語った。当時は「このひと、また何を意味不明なこと言ってんだ」と思ったものだが、いまは分かる。当時の私は、子どもというものは親に依存せずに親から独立して、親を超えていかなければならない、育ててもらった恩を返済して対等になるべきだという物語のなかを生きていた。しかしこの先輩は、私の準拠する物語が一面的でしかないことを見抜き、別の物語への準拠の可能性を示唆していたのである。「犯罪者はまともな仕事で食べていく努力をしてこなかったから犯罪に走るしかなくなったんだ。ゆえに自己責任だ」という物語がある一方で、「犯罪者が出るのは貧困や差別が放置されているからで、それを放置してきたのはむしろ犯罪者ではない人たちなのに、犯罪者のほうに責任をなすりつけるのはおかしい」という物語もある。どちらかにしかコミットできないのは不自然であって、ふつうはどちらにもコミットできるように人はなっている。先ほど物語の複数性という言葉で抑えようとしたのはこういう余裕のことである。しかし、これから私が語ろうとする物語は、特殊な物語である。この物語には複数性も遊びもない。この物語は、「陰謀論」と呼ばれている。