つかれぐま

東京物語のつかれぐまのレビュー・感想・評価

東京物語(1953年製作の映画)
-
<4Kデジタル修復版>

鑑賞中感じていた不気味な気配。反芻して分かる「これは本当は怖い名作映画」なのかも。

「いい映画を見たなあ」とほっこりする後味はない。ラスト、紀子と京子のシスターフッドに僅かな光が見れるが、全編に漂うのは「家族」という社会形態への絶望感だ。

まとわりつくような不気味さも感じる。
これは誰の視点なのだろう?と不思議に思えるカメラワーク。紀子が義父母に見せる過剰な愛情と、素に戻った時の表情のギャップ。亡き夫への操か?あるいは戦後まだ女性が独りで生きていくことが難しい時代背景ゆえ、平山家とのつながりに縋っていたのか?様々な解釈が可能だが、一つの仮説を考えてみた。

随所に見られる不思議な主観ショット。
あえて物陰から覗いていたり、人物が部屋から出てもなおカメラは無人のそこを数秒映し続けたり。これは戦死した紀子の夫・昌二の視点ではないかと。不気味の正体はこれかもなと。戦死後、僅か8年で変わってしまった平山家の親子関係。昌二の「眼」にはどう映っていたのか。このドラマを俯瞰する役割には、彼がもっとも相応しい。

そして紀子だけには彼の姿が見えていたのだ。義父母が紀子の部屋を訪れて丼を食べるシーンがあるが、まるでそこに昌二もいるかのような構図だ(紀子はカメラに背中を向けている)。紀子は彼の期待に応えようと義父母に過剰なまでに優しくする。「私、ずるいんですの」と最後に告白していたように、あれは彼女の心からの振る舞いではない。亡夫の遺志であり戦前のイエ制度に縛られた、当時の女性の生き辛さだ。

そんな紀子の苦しみは、皮肉にも義母の死で終わる。弔いが終り、義母の霊は成仏できずにいた昌二を彼岸に連れて行ってくれたのだろう。葬儀後の紀子の明るい表情は憑き物が落ちたようだ。「私、ずるいんですの」と義父に告白し、ここから彼女の優しさは(義父ではなく)義妹の京子へ向けられる。

「夏休みになったら東京へおいで」
繰り返し京子を誘った、この言葉に込められた紀子の想い。帰京する汽車内の彼女の表情が絶妙だ。その汽車を見送る京子。微かな希望が見えるシスターフッドに救われる素晴らしいラストだ。