ウィリアムは私とほぼ同世代である。
「ベットの下に自由がある」と言って、彼の姉が残していったのは、
いまではあまりにも有名なレコードたちだった。
胸が苦しくなった。好きなことをできていない自分、何にも一生懸命になれず、
テストのためだけに生きているような人生。
ウィリアムを観て、自分の好きなもの、そして、好きなもののためなら、どんなになっても
やり続ける、そして、ペニー・レインを愛す、彼を観て、あまりにも苦しかった。
大人になってしまった、ラッセルたち。子供のふりして。自分達の姿が見えなくなったいたのではなく、見えないようにしていたのだ。
そして、どこまでも、音楽を、ロックを愛していた、ペニー。
大人の世界に足を踏み入れた、けれども、やはり少年であるウィリアム。
大人ってわかってるけれど、直視できない、ラッセルたち、スティルウォーター。
どこまでも16歳のペニー。
この三点は歪にせよ、三角形を描き、その三角形は私の胸にひどく
突き刺さる。私はたぶん、彼らの三角形の外側に放り出されて、どの点に終着すれば
いいのか分からなくなっている。
大人に、なったら、この頃は、「あの頃」と言えるのだろうか。
そして、フィリップ・シーモア・ホフマン。クリーム誌の伝説のライター。
カポーティとは全く違った、声も振る舞いも何もかも。
いい加減ではありそうな人ながらも、浮遊していきていそうながらも、
どこかで地に足ついてる、そんな役柄をこなせるのは世界には少ないと思うのだ。
私の大好きな俳優だ。
そして、今では、古いと言われても、私にはちっとも古く感じない、そんな音楽たち。
どこか、懐かしく、そして、切ない。
青春というのは、ただ輝いているだけじゃない、絵に描いたような青春などありえない。
みずみずしいばかりではない。
でも、そのみずみずしさと苦さがあるから、ときたま、大人から「あの頃は」と
聞くのではないだろうか。
今、この瞬間に「ペニー・レイン」と出会ったが、次観るとき、「あの頃は」と
思うのだろうか。