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サン★ロレンツォの夜のryosukeのレビュー・感想・評価

サン★ロレンツォの夜(1982年製作の映画)
3.8
タヴィアーニ兄弟作品は初見だったが、クローズアップと風景の中にポツンと人物を配置した引きのロングショット長回しの組み合わせ方、会話とその後の沈黙の間の取り方、多用されるワイプによるざっくりとした時間経過が生み出すシーンの羅列感が、独特のテンポと感覚を生み出していて何とも心地よい。夏のイタリアの情景描写の美しさが目に染みる。
村が爆破されるシーンの演出が独特だった。何度も部屋に侵入していくカメラワークの繰り返しで家に染み付いた記憶を見せた後に、三時を指す時計台が象徴的に崩れ落ちる。村の破壊を音だけで感じ取ることになる人々の心情を、その耳へのズーム+クローズアップで表す。一人の村人はもはや不要になった鍵を静かに落とす。決定的な瞬間を過度に情緒的にしないのが上品。
これは聖堂の惨劇のシーンでも同様。下手にサスペンスを煽ったりせず、聖堂の入り口から静かに煙が流出し、最も残酷、衝撃的な瞬間は省略してみせる。それでも、助力を拒まれ、四方八方に聖堂から逃げ去っていく人々を見つめる司祭の無力な立ち姿のロングショットで全てが伝わるのだからそれで良い。
発生する出来事は間違いなく悲劇でありながら、緩やかな喜劇調が維持される点が特徴的だが、この両義性を生み出している一つの大きな要素は後に語り手となる幼い少女の存在だろう。村の爆破にワクワクする様子、実家が焼かれた女に耳飾りを預けられたことを幸運に感じるエピソードなど、爽やかな残酷さのある子供特有の感覚が、物語に軽さを付与している。出来事に対してある一定の意味付けと評価を与える枠組みに縛られていない彼女にとっては、ファシストからの逃避行も非日常的なお祭りなのだろうか。大きな目玉に全感情を露わにし、口を豪快に開けながらアメリカ兵と交流する姿が愛らしい好演だった。
クライマックスとなる麦畑での銃撃戦でも、場を一定のムードに支配させない独特の感覚は維持される。敵味方の取り違えによるコメディチックな演出や、幻想の中の古代ローマ兵士と「串刺し」等イマイチ深刻さの感じられない描写に、乾いた、軽い銃撃音が鳴り響く中で、特段苦しそうでもなく、あっさりと人々が倒れていく様子が、どこか気の抜けたごっこ遊びのようにも見えてくる。一番悲惨に描かれるのは、目の前で息子を射殺され、回転しながら頭を自然に擦り付けて自決する父親の描写であり、ファシスト側の描写であるというのも善悪の単純化を拒む一因となっていよう。
随所で視線劇により示唆されていた、ガルヴァーノ(オメロ・アントヌッティ)とコンチェッタの四十年越しの思いが成就する瞬間に重なる不穏な戦闘機の轟音と、か弱い蝋燭の光のクローズアップは、手にした瞬間に失われるという類型の悲劇的な結末を予告するかのように思えたが、翌朝になると、あっさりと村は開放され祝祭の雨が降り注いでいる。最後まで予定調和が避けられ、多種多様な現実の諸々が単純な物語へと回収されることを拒絶するのも誠実さというものだろうか。
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