のーのー

ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記ののーのーのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

原作は子供の頃に繰り返し読んでて、シリーズの中でもお気に入りだったと記憶している。ぬいぐるみやオモチャだけでできた町のミニチュア感が楽しい。また、エッグハウスという“キャラの誕生の場”があるのが独特で面白い。
映画版も昔1回ぐらい観ているはずだけど、改めて観るといろんな引っ掛かりポイントがあった。

まず、原作者が途中で亡くなったこともあり、かなりまとまりのない話運びだと思った。特に前半は、ドラえもん一行やねじ巻きシティーの話がどこに向かっているのかイマイチわからない。一方それらと全く関係なく登場する悪役の熊虎鬼五郎一家のほうがむしろ『のび太の大魔境』みたいな正統派の冒険譚を担当していて、こっちの話の方が推進力がある。子供の頃はなんとも思わなかったけど、変なバランスで面白い。
あと、冒頭から登場するパカポコがしばらく何の説明もなかったり、鬼五郎が野比家に侵入するのが特に理由付けされていなかったりなど、展開・要素が多いわりに説明が端折られたり流されたりする部分が多い印象。それに加え、全体的になんとなく会話や展開のテンポが早くて、原作を先に読み込んでなかったら話についてくのが難しいんじゃないかとすら思った。

原作からの変化で気になる部分も多かった。ウッキーが地球から連れてくるメンバーは原作と映画で若干違ってるんだけど、インパクトやクライマックスのバカバカしさという点で、やっぱり原作の方が良い。あとこれは漫画とアニメの媒体としての違いの話だけど、漫画だと静止画表現なのでぬいぐるみの無表情な可愛さと相性が良かったのが、アニメだとピーブやプピーが口を動かして喋るからあんまりぬいぐるみ的な可愛さじゃないな…と感じたりもした。
そしてこれもアニメ表現特有の問題なんだけど、“ホクロ”の声がオリジナルの鬼五郎と全然違う繊細そうな声なのがあまりいいと思わなかった。自分の解釈では、原作のホクロはオリジナル鬼五郎とそんなに人格の変わらない存在だと思っていたので、アニメだとラストが文字通り「完全に別人に生まれ変わった」ように見えて、“改心”の表現としてそれは良い話なのか…?と違和感を覚えた。個人的にはホクロ鬼五郎はオリジナル鬼五郎と同じ声優(内海賢二)を当てたほうが良かったんじゃないかと思う。

原作と共通の引っかかりポイントとしては、ジャイアンの土木建設事業が止めさせられる話はもう少しフォローがあってもいい気がした。環境破壊が悪いのであって開発という営み自体は悪ではない(現に作中でもメジソンは環境にいい資材を使って建築業をしてることが言われたりする)のだから、ジャイアンが仕事をやめるのが正しいこととされるような描写に違和感があった。メジソンたちと協力してジャイアンも建設事業を環境に優しい形で再開する、みたいな描写が、例えばエンドロールにでもあったらよかったのにな、とないものねだり的に思ったりもした。
(それはそれとしてジャイアンがショゲて可愛い感じになる展開は『アニマル惑星』以降の定番でもあるので、そういう見せ場があるのは良かった。ジャイアンとティラちゃんの再会シーンが、周りは茶化してる感じだけどBGMは当人たちの情緒に合わせて感動的な感じになってるのとか良いなと思った。)

一番気になったのは、「生命のねじ」によって命を与えられたぬいぐるみ達が死ぬことはあるのか、という疑問がどうしても浮かぶこと。作品の雰囲気に対してシビアな問題なのはわかるけど、「生命」という言葉を使っている以上は、間接的にでもその疑問に答えるような描写が欲しいと思った。それがないので、のび太たちが無邪気に生命を生み出していくのがちょっと無責任で危うく感じた。
しかしよく考えてみると、のび太が死んだ!?というような展開があったり、ホクロ鬼五郎が子供たちを殺したと思い込んで罪の意識を持つ描写があったりと、メインキャラに関してはシリーズの他作品に比べて死のイメージがつきまとう作品であることは確かで、「生命」に対する「死」はこういった形で表現されているということかもしれない。
それに加えて“種まく者”の登場、そしてもちろん原作者藤子・F・不二雄の死という作品外の大きな要素もあり、完璧な形ではないにしろ、この作品全体が「生命と死」という巨大なテーマに貫かれていることだけは間違いない。そういう意味で、先に挙げたような諸々の細かいところがもっと良ければ、この作品はレベルの違う大傑作と思える作品になってた可能性もあったのかも…と思う。
のーのー

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