せんきち

アシュラのせんきちのレビュー・感想・評価

アシュラ(2012年製作の映画)
2.8

ジョージ秋山原作の超カルトマンガの映画化。映画化したことだけで奇跡的である。製作良くやった。しかし、出来が良いかというとそんなに良くない。

平安時代末期。飢饉の中で生まれた赤子は飢えた母から食用として殺されかける。奇跡的に助かった赤子は言葉も知らぬまま成長し、生きるために躊躇なく人を殺し人肉を食う少年となっていた。それを見た坊主により、少年は”アシュラ”と名づけられる。


”アシュラ”と言えば人肉食いであるが、それはしっかり描写されている。暴力描写も生々しく、製作の本気度が伺える。しかし、これは明らかに失敗作だ。何故なら、「アシュラ」という物語をどう語ろうとしたいのか不明確なまま終わっているからだ。


原作の「アシュラ」は打ち切られた作品だ。70年にマガジンで打ち切られた後、81年にジャンプで読み切りで完結編が描かれているが駆け足で終わらせた感が強くしっかり終わった印象は薄い。従って、原作のエッセンスを使って様々な語り口で再構成する必要があったのだろう。今回の映画化でも相当難航したようだ。

パンフのさとうけいいち監督のインタビューによるとさとうけいいちは本作が迷走中の段階で助っ人監督として参加したという。途中まで若狭とアシュラの「美女と野獣」ものという方針を変更し法師の視点でのアシュラの成長物語にシフトしたという。


この迷走が本編にしっかり出ている。原作のアシュラと違って映画のアシュラはどこに向かうのか目的が最後まではっきりしない。

原作のアシュラは過酷な環境で自分の出生の秘密を知り、絶望しつつも仲間と都を目指す。←ここまでがマガジン版。完結編で父との対決と師である畜生法師との別れ。アシュラの仏門帰依までが描かれている。

映画はアシュラと母親代わりの女性若狭との交流とそれを見守る法師との交流が描かれている。

映画版の問題は物語の方向性が見えないことだ。ラストは若狭が飢饉で餓死し(アシュラの持ってきた馬肉を「人肉」と思い込み最期まで食べない!)、アシュラが一人村を出るシーンで終わる。その後のエピローグでアシュラが仏門に帰依したことが分かるカットが挿入される。観れば分かるけど、若狭の死で村を出るのは中盤のエピソードでしょ。そこから1つか2つの展開がないとアシュラが仏門に帰依するようになるなんて思えないよ。製作側が方向性を見失ったため盛り込むエピソードが不足しているせいだと思う。

元々「アシュラ」とは地獄巡りの果てに希望を見出す話なので極めて宗教的な物語なのだ。妙な色気は出さずに苛烈なエンタメ宗教映画として作ってくれたらなあと思ったりして。

この映画で良いと思った所。

劇中アシュラは2度橋から落下する。一度目は死体がクッションになって助かる。二度目はどう考えても助からない高さで落ちる。アシュラは何の説明もなく生還する。これは1度目の段階で既にアシュラは地獄に落ちているからという演出だ。地獄に落ちた人間が二度死ぬはずがない。アシュラは死なない(死ねない)のだ。更に悲しいのは「生まれてこないほうが良かったギャア」と叫ぶのに自殺しないところ。言葉も教育もろくに受けてない彼には”自殺”という概念自体が存在しないのだ。

ただ、残念なのはアシュラが地獄に落ちているので死ねないという演出をしたのだから、クライマックスのエピソードでアシュラが人間として生きる道をみつけ、人間として死ねるまでを描かなかった所だ。

後、良かったのはアシュラ役の野沢雅子の演技。やっぱり凄く上手い。近年珍しいタレント、芸人を排した声優主導のキャスティングも嬉しい。法師役が北大路欣也ってのも凄いけど。野沢雅子と北大路欣也の芝居だよw


「アシュラ」の構想ではアシュラと名づけられた少年はやがて「命」という名前をつけられて終わるはずだったという。ジョージ秋山の息子の名前は秋山命という。ジョージ秋山にとっていかに重要な作品であったか分かる話だ。
せんきち

せんきち