かなり悪いオヤジ

たぶん悪魔がのかなり悪いオヤジのレビュー・感想・評価

たぶん悪魔が(1977年製作の映画)
3.5
ミケランジェロ・アントオーニが作中で、“環境破壊”に対する警鐘を鳴らし続けてきたことは、一般的にあまり知られていない。“愛の不毛”などという形容を勝手につけられ、(あまりにも抽象的で難解な作風をいいことに)その枠組みの中でしかアントオーニ作品を鑑賞することができない日本人の何と多いことか。ブレッソンは(遅ればせながら)本作の中で、それを『カラマーゾフの兄弟』から言葉を引用しながら「悪魔が裏で手を引いている」と分析しているのである。

フランスでは18才以下の鑑賞が禁じられ、高度成長期の日本でも正式な劇場公開が見送られたほどの問題作。五月危機そしてベトナム戦争を経たフランスいや世界が、今までの社会システムのあり方に疑問を抱き、出口を探しながらもがき苦しんでいた時代に撮られた作品である。左翼の政治集会や不毛な宗教論争にステレオタイプな精神分析、そして環境問題を論じる大学サークルやヒッピーたちの集いに参加しても、そこに自分の居場所を見いだすことができない青年シャルル(アントワーヌ・モニエ)。

どちらを選ぶでもなくアルベルトとエドヴィージュという2人の女性や、行きずりの女との怠惰なSEXを繰り返すシャルルに、ブレッソンは『ベニスに死す』の美青年タジオと同じ意匠(髪方がそっくり?)を施すのである。ファスビンターがベルリン国際映画祭で激賞しトリュフォーが「すばらしく官能的」と評した本作が『ベニスに…』と同じカメラマンの手によることは、おそらく偶然ではないだろう。私の場合、「何かを犠牲にしなければ前に進めないのか」という疑問符を残し、砂漠でひたすら交わるヒッピーたちを描いたアントニオーニの『ザブリスキー・ポイント』(1970)をふと思い出したのである。

ラスト、薬中の友人に自分を射殺させるシャルル。シニシズムの果てにたどり着いた現実逃避と見るべきか、あるいは崇高な精神に捧げられたサクリファイスと見るべきなのか。もちろん、それは物質主義に洗脳され(法の声を聞く耳を塞がれ)、競争に明け暮れる現代人にではなく、“欲しいものを手に入れる幸福よりも、美しい森の中を散歩する幸福”を選ぶブレッソンが唯一信じる心の中の“神”に捧げられた死に方(生き方)だったにちがいない。たとえ“年老いた監督が撮った映画”とファスビンターに揶揄されたとしても….

『死を受け入れることで、自分の生を生きるチャンスがより多く生まれる』
        ロベール・ブレッソン