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下女のニューランドのレビュー・感想・評価

下女(1960年製作の映画)
4.4
☑️『下女』(4.4)及び『玄界灘は知っている』(4.5)『高麗葬』(4.6)▶️▶️

昨年、本作が上映された時、スコセッシ財団復元の綺麗なものだったと聞き、その種のものは1回しか観てなかった(大抵はボンヤリめのもの)ので、今回またそれがということで駆け付け、併せてBD版だかの BOX発売てブラッシュアップしてるだろう初期の代表作二本も観る。観終わって改めて確信したのは、’60年代という、映画も前衛·革新·創造の焔が最も燃え盛っていた時代、この作家はその最前線·TOPにいた事の事実である。仏のゴダール·レネ、伊のフェリーニ·アントニオーニ、米のブラッケージ·キューブリック、北欧のベルイマン·ドライヤー、日本の大島·今村、中南米のブニュエル·ローシャ、ソのパラジャーノフ·タルコフスキー、東欧のブラーチル·ワイダ、アジアの胡·ライらと、完全に歩みは同期しているばかりか、その多くより抜きん出てるくらいだ。
今回の復元版は、前回の他国の字幕が入ったののいいところを繋げたのとは違い、余計な字幕消えてツルンとなかなか綺麗だったが、中盤はやや薄暗いか·白飛び目立ち、短くも度々のコマ飛びが気にかかるものだった。通常出回ってる物を考えすれば良しともしたい。後半の、強引な不気味な音楽のリードと特に女たちの怪演、止めどない人間らの情慾と家屋内の魔の絡み堕ちは、前半の極めて西洋的な無駄のない·スマートで坪を押さえたシャープて強いスタイルから、無理なく受け渡される(音楽のドーンとした不気味さもウェートが増してく)、正に名作·衝撃作であり、ポン·ジュノが100年かかっても追いつける境地のものではない。
始めへんに交錯した2人が次のカットで別空間内に同じ向きで入って来る編集が代表するように、人の動きと狭い室内空間の捉え方が独特で、目的の部屋はどこでも一気届くが·そこから戻り循環し抜けられない。舞台のセットの様に1面性がベースにあり、手前空間内に対して切り返しても不意の人が立ち塞がったり、雷雨や暗闇が遮断している。部屋と家具·扉·大硝子窓を、階段廊下やベランダの繋げ囲む在り方が、殺鼠剤と人の生死の行方を動かしてゆく。それまでは、ポイントになる物·行為はアップで示され、上·下半身の分割めが的確で、対象に向かいスーッと前後してくような長めのカットは、フォローや斜め横へのズレを含み冷めている、短い気付かぬくらいのスッと対象を廻りかける移動もそうだ。空間もステンドグラスがあったり、微妙にゆとりがある。それが、新居に·それも様々に行きどまった奥まった所が移ってよりは、先に云ったように塞がり、 思わぬ 激しく一気強い (事故的)動きや·俯瞰縦の危険な予兆図が現れ、対象近くにフィットしてのノロノロ·も重く命にリンクしたようなフォロー移動がウエイトを増す。また、相手の内にはまりこんで、足を重ねのせての絡めとりの2回の形も凄い。
新居を手に入れた家族と、そのビアノ·レッスンの生徒や新家政婦らを描く本作品の、男たちは、父も幼い息子も、効率や社会的価値観に縛られており、それらを遵守しつつも、女たちは内の欲望·見栄·直情愛になりふり構わず、忠実だ。足の悪い娘すらも、不気味な他者を、計る表情をいきなり見せたりする。なりふり構わず、豪腕を自らの体面·本音の実現の為に持ち出す。2人、あるいは3人の女が絡んでの、応酬の逆転、思わぬ発想続きが凄い。
「不道徳と仰る。その為に、その従業員が停職になっても」「あの手紙は私の気持ちを彼女になって、代筆してもらったもの。故郷に戻って病に·そして自殺した彼女の復讐てはなく、先生の事が···」「全て見ていた。バラされたくなければ、私のことを」「何てこと。田舎に行ってた間に。家を作る為に、私も疲れ老いたが、やっと幸せにと思ってたのに」「教え子が私の為に自殺して動揺してた」「あの仕事を失う訳には。工場に漏れないように」「いや、違うんだ。妊娠したのは」「私が頭を下げてでも何とか彼女に退いてもらうわ」「私には家族がある。同じように生まれくる子供に対し、貴女は天涯孤独」「貴方たち夫妻に、子供を作らされ、また、殺された。同じ兄弟なのに、私の子供だけ、何故。同じ目に会うべき」「何と言う女だ。お前を殺して、警察にお世話になる」「それは駄目。私たちの、家その他すべて失うわ。何でも望みを叶えるわ。だから」「分かった。私の望みはご主人を私のものに。今日から私の床で」「分かった、私はそのうち、子供らとでてくわ」「違う。私は只水を差し出しただけ。勘違いしたはあの子の方。それにおあいこ」「殺してやる」「あの世で2人一緒に幸福に」「ああ、毒が。しかし、命はくれてやるが、魂は自由。最後は妻の所へ」「駄目。死んだら永くというが、生きてる間が全て」「家を新築することだけを優先して考えてた私が間違ってた。借家のままで無理せずの方が」「家政婦と浮気。よくあること。それに男は老いるほど若い女を求め、だまされるめもの。聞いてる貴方も例外ではない」
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『下女』が自分が生きてきた韓国固有の世界を、濃密化して特化した極めて優れた、洗練と原点化が同時に高い時点でなされた作品なら、続く(知らないがほかに何本かあったろうが)2本は、韓国を越えた巨大·超大なアジア圏の歴史·世界に向き合い、囓り尽くし、より拡げ彼岸に辿り着いたような前例のないような作品である。『玄界灘~』は、1944年太平洋戦争末期の、韓国からの学徒兵を迎えた名古屋の兵舎を舞台にし、その日本軍隊特有の反人間性と、名古屋の街を巻き込む戦禍とそれに対する行政の隠蔽体質を描いてる。日本の文化·風習·生活をそのままというより、より本質をカリカチュアし突いたような、鋭く独自の様式化を成し遂げていて、そのチープさ·心の奥をくすぐり·また恥を良くもあしくも感じるようなスピリチュアルな自覚の覚えは日本人として改めて自己に向かわせてくれる。とりわけ、本作が本邦初上映された頃は画質の劣悪さのせいもあって、こんなのあり得ない·かなりいい加減だなと思い、評価の対象が全体のスタイルやラストの凄絶を越えたカタストロフィばかりに向いてて、浮き上がって見えたヒロイン像の挑発性に驚く、この造型はあらゆる意味で挑戦的·先駆的·大胆不敵な本作の中でも際立っている。朝鮮人を人間扱いしていなかったヒロインが、日本·日本軍隊の後進·反動性を目の当たりにし、それに抗する健気で毅然とした、日本人の失った魂に共感し、自ら自分の未来をそこに見いだし、常識を無視し超えて、理想·あるべき人間の姿に盲目的·超生活者的に向かい、誰よりも果敢に係わるものをリードしてゆく。相手の学徒兵はその為の道具でしかなく、同時にお互いを高めるモデルの実践の協力者·一体者である。いつしか、夫に全てをゆだね殉ずる日本女性のあるべき姿と認めるようになる母も、最後まで日本人である地場を捨てられないのに対し、彼女は増村映画以上に価値を、自らの出自の縛り·誇り·共同体や血に、残したままにはしない。それは突飛すぎて映画的共感を遥かに超え、神のみぞ認められるようなトンデモ世界であり、いつしか理解や感性を超えた天啓的共感を憶えるようになる。外国人の描いた日本社会を描いた、日本人の自惚れから怒りの方を招いた実は偉大な作品、『アナタハン』『ロスト·イン~』『沈黙~』らに充分に伍する、そればかりか隣国からの独自の距離感·肌触りに発見のとりわけ多い作品である。
「お客様の背中を流してあげるのは日本の風習」「朝鮮にはない。恥ずかしく·羨ましい」ー「秀子、何てことを」「同じかどうか身体を確かめたくて」/「日本軍隊の伝統? 分別を教える? またそれを教えて下さい。それに闘い、それを毅然と拒んでらっしゃるのね。誇らしく、また痛ましい」ー「初めてその暴力を目の当たりにしました」/「私は日本人ではない。女です、1人の人間、秀子です。女は愛する人の国の人間に国籍も変わります。動物の仲で、人間だけが結婚した相手と一生を添い遂げます」「朝鮮では、言葉や習慣もちがい、また住んでるのは豚小屋です。そんな所で我慢出切る筈もない」「名古屋だって、40年前は豚小屋だった筈。40年経てば、私達も新たな人たちを迎える立場になる。女は、未来·遺伝子の可能性の為、でき得る遠い相手を探し求めるもの」/「奴とアメリカ人の英語は癖があって分からない。あいつの真意をはかる為に俺も、囚人の通訳につけられたが」/「自動車隊は、直ぐに輸送船に乗って激戦の最前線に? 日本は(お母さんたちの信念と違い)負けるわ。日本人ではないのだから、(滅ぶ)日本人の為に死ぬ必要はないわ。一緒にに逃げましょう。無理?任務?」「アロウンの制服はあるかい? それを損壊の死体に被せれば」「李家さん、お願い」「(懲役なら戦争終わるまで命生きながらえるが、)ばれると、即座に銃殺になる」「お願い」/「遺体を移して纏めて焼却する? まだ生きてる者もいるかも? 家族として会いに行きたい」「出来ない。この空襲の事実が知られて国民の士気が下がってはならない。この事はなかったこととする、何もなかった」「(僕は生きている。)何十憶年もかかってやっと生まれた一個の人間の命、たやすくそれが失われるわけがない」
「楯」にする為の朝鮮学徒志願兵の日本軍隊組み入れの「実験」。「日本軍隊の伝統」による「古参兵(一等兵)」中心の、暴力や食料制限(「不衛生な古参兵の残飯」)による、(「高等教育を受けた者への)「人間性破壊」に誇りを棄てず立ち向かう者ら。「志願」取消そうとすると、有無云わせず独房へ。古参兵や憲兵も、朝鮮人理解の部分もあるが、手を弱めると「共に切腹だ」なんて自分のピンチとなる。最前線行きに対しては、日本兵の方が、現地で優遇の缶詰確保、また日本に残れる仮病や怪我·さらに軽い罪で懲役の姑息策に向かう。日本兵にも、「職業」軍人を拒み、士官を目指さぬ者も、また朝鮮人兵にも昇進して、古参兵をやり込めんとする者もいるが、また軋轢にもなる。名古屋空襲で仰向けに倒れ合って身体重なり、死体の山が出来てゆくのを、駆け付けた家族に写真確認させてるだけで·トラックで集め別場所でガソリン掛けて焼却し·空爆被害の事実を抹消しようとする行政に、家族らが制止振り切って群れとなって駆け付けてくのに、只ひとり蓋が救うマンホール穴で生きていたアロウンが息を吹き返し逆方向に交錯してゆくを、迎え抱き合う秀子とのカップルの唯一的孤絶と浮き上がる素直な悦びを寒々と見せるえらく皮肉は、次に述べる人工的スタイルで恐ろしいくらいに(偶然に)呈示されてゆく。
『下女』のように、内なる土俗を持つ対象を際立て本質を強める、近代的なスマートで効果的スタイルと違い、固く機械的·人工的な距離感を感じさせる狭い·溢れるものの多いスタイルである。日本の生活様式·社会システムの、いびつで脆弱さが様式化·抽象化され、箱庭のように捉えられ、細長かったりする部屋や空間が立体的·有機的な全方位的に切り返されることは少なく、視野の近代性よりも、シーン毎に一方向主眼に見られ、せいぜい90°変(からの)リヴァースが手狭単純にに捉えられてゆくだけである。抽象的前後大きめ移動、並べた新兵を次々殴る等へのコンパクトな斜めフォロー、揉み合う集団的可愛がりや急な投げ飛ばしの(90°変)リアクションカットの受けやその空中浮遊フォロー、等の漫画的動的加えの的確過ぎフィットも更に描写を浮いた軽く、また近しいものにしてく。日本家屋の抽象性加わったセットの、模範的でもなくも一般的日本観の中に弱さ·汚しの普通折り込みもそうだ(建付け·間取は弱めで、障子が普通に汚れている)。アジアの方向付けの起点となってる日本の歪みと同時に、アジア全体の拡大·発展にはたらきかけてく脆弱さ故の可能性もある。兵舎では長机と縦に捉えるた云わばローの加減·土台の見据え方がある。終盤は一挙に場がそのまま拡がり、梁が高く縦横に走る建屋内での憲兵との対決では、足場に撒いた油を射つ事での一挙炎上倒しがアクション映画レベルを越えて描き抜かれ、先に述べた続く·空襲炎死の人々の量と個々の仰向け倒れ(マンホール開け逃れの主人公も)の塊と量と脱出線見えない空間力が凄く、その後のトラックで移して、下ろし死体一斉ガソリン掛け消滅化と網を倒し駆けつけてく家族の量感·必死感の動力は、スペクタクルを越え、事実逆方向に死体群から起き上がってく主人公とヒロインの迎えの孤立·独自ぶりの動内動感がそれを証明立てる位に鮮やかで深くリアルだ。全体の塊·壁的人間の存在感への落とし込み·半抽象化する何かの力の、本来内であるべきが、現実には外圧への自死的あり方への向かわせ方が、息をのます。
空襲自体は、実写·ニューズリールやその中への現ドラマはめ込みや、あざとくも余計毒々しいミニチュア·アニメ的描写を使い込むに迷いない。日本を学ぶに行かされる描き館のスクリーンに、10数年後しかない筈の素材、スコープの橋蔵·大友が写ってるのも、作風·アジアなるもののある1面の希求に反してない気すらする。全体にあまりの明晰さが、巨大な不可解な我らの暮らす世界のあり方と、抜け進む手応え·手触りを感じさせてくれる。
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深沢七郎的世界の映画化は、まだあるが私が観れたのは3本だけだが、その中ではこの『高麗葬』が抜きん出た、映画とそれを越えた力を持っている。
作家の本分を半ば捨ててまで、世界を描く自然と意欲の間に、厳然と自己に向き合って挟まってる、文化·史観·美観·様式性の巨大な拡がりと歴史を逆にこちらに引き込んで血肉化する三部作?の最終作は、現代の観客入れ·人口と食料と調節の力の要請についての識者討論会のミキサー室取込みから入る。より、寓話的でより総括寓話的で、ハリボテ的多様·巨大セットの殆んど連綿をまるで恥じることもない。
『下女』を除く2本は、かなり劣化し欠落部が多い現状で、特に当初日本公開時には、画面の転写は相当にお粗末で商業映画のレベルとは云えないもので、上映時間もかなり短くなっていた(『下女』はすぐにスコセッシ財団による復元版が出来上がる)が、その後字幕説明が加えられたり、それと共に映像だけorサウンドトラックだけの残存を巧妙にはめ込み、画質も残ってる原版を活かし上映の度にブラッシュアップしていった。
かなり昔、近代化に程遠い、70才に達した者は自ら口減らしに去る慣例の、貧しい山間部の村。そこでは巫堂の占いが大きな力を持ち、人々はそれに生き方を左右され、財や心のあり方を寄与していた。貧しさ·ひもじさと、偏見という二つの歪みに翻弄された2家族の40年に渡る話(15年後、25年後の3つの時期が描かれる)。10人の子沢山と彼らの偏狭さの為に、後妻がすぐに追い出される事が繰り返される家に、最後の機会と嫁いだ1人だけ残った息子を除いては、家族を餓死で失った女。共に窮迫していて、嫁入り時、巫堂から要求された金を断り、それが「その息子の‘悪運’の強さは避けられず、その力は元からの子10人を滅ぼす」との予言と、その後々までのそれへの怯えによる、過剰な行動が生まれてゆく。
『下女』のヨーロッパに負けないシャープで粘っこいスタイル、『玄海~』の独自に歴史を切開する挑戦的スタイル、に対して本作は、勿論前後や横への(フォロー)移動や力強いカット組立、特に終盤のトリッキーなインパクトはあるものの、概して奇怪で素朴なセット·世界を浮かび上がらせる為の、付属的·鈍重なスタイルである。世界はがっぷり不可避に絡まり軋み動いてゆく。この真正面から世界のあり方を、特定の古い貧弱世界と見えて、普遍の力学·そのベースの醍醐味を描き抜いてる。しっかり細部のあり方が歪みなく捉えられ続けてく、と云うべきかも知れない。カメラのフォロー長めや寄る移動は的確を超えず、重みや風格を欠いたセット·その単純化された白黒メリハリのあるセットやメイク·衣装はパゾリーニ以上に歴史·文化の本質に一気に掴み行ってゆく。キム兄似の俳優を始め、『玄界灘~』とカブる俳優らの繰返し起用も、作品の突っ込みに貢献する。
ストーリーは、他作以上に骨太に幾つかの要素が絡み、各シークエンスと全体が社会をしっかり掴んでいて、視覚的·心情的クライマックスの姥捨山をも全体の一部に組み込んでゆく。再婚も、夫の子供らと合わず·彼らに我が子を不具者(毒蛇で脚噛まれビッコに)にされ、それは成人した我が子が好きな相手からの最終的結婚断念、改めて迎えた新妻は言語障害の同じ不具者と後で分かり、互いに差別をなじり合う関係にしかならない。また、10人の元子供たちは、巫堂のお布施なしを恨んでの占いを·経緯に予兆も見えた事から信じ続け、あの新妻を犯し死に至らしめる。そればかりか、ずっと後に最初に惚れ合ってた同士で結ばれたのに対しても、イチャモンの告発で2人を古木の縛首刑にしようとし、更に相手の(いまや)老母の犠牲でそれがクリアされたのに、相手が戻る前に妻の処刑を、血を根絶やしにする為、決行す。それは予言通りの自らの斬殺死を招く。また、離婚の時の土地の一部に分割、また10人らの村の貴重な水源管理·村人への分与は、二家の村での突出·力対立を顕わに進める。また、別の所に嫁入りして多くの子をもうけた最初の恋人だが、ひもじさ·飢餓から、子供の1人の元彼への嫁入り画策、彼女が戻されると、夫が家族の為、自ら村を去り、タブーの重婚を快勝策を取り、子供たちの為に嫁入りしてく。それらの中、巫堂の支配力は不変で、雨乞いの為に生け贄→予言霊を求め、戻されたあの少女がすすんで犠牲となる。そして、70になった老母が、姥捨山での神への叶い願いの為に、縛首の息子らと村人の犠牲となる。その諸悪の根元の迷信に対し、10人殺害を途中で止めた、目覚めた男によって、古木諸とも葬られ、彼は残された彼女の子らと再出発を固める。縒り合わさり、より骨太へ、より深く、より解放へのベースを固めてゆく。【未完】
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