ニューランド

不安は魂を食いつくす/不安と魂のニューランドのレビュー・感想・評価

4.4
 40年くらい前に観た時は16ミリ版で、やはり手軽く作られた作品ながら、当時日本で上映されてたファスビンダー映画の多くのように、見かけ上の幸せを深い退廃·ズレが巣食い何時しか決定的に破り尽くす、といった流れだけに染まってなくて、具体的な周りも都度変化してゆく関係性で、様々な行く末の可能性が示されてた、不思議にストレートが多面を引き連れてく、一般的円満な映画の形にも近い所の標準性も持ち、この作家にしては特異で、悲劇や皮肉だけが彩られるのではない、通常ドラマの体も成してて、逆にそこからデスペレートな己れの資質も越えようともしてると観ていた。何しろ、俳優と画調が、変な退廃的な艶やかさを帯びることなく、硬質に客観力を持って貫かれていた。勿論、この作家の上の方の傑作ではあるが、最高レベルとも思わなかった。
 DCPで渋谷さん訳で見直すと、絵の硬さ·役者の1点向き視線、を殊更感じる。標準よりやや広角寄りで、低め·テーブル上の見上げめ、手前囲み左右半開き戸越しや、正面よりも僅かに斜めにズラせたデクパージュを半独立した図ら、上からの赤め照明頭の上部染めや·壁絵画や食器棚·カウンター·テーブルらも·白や赤が目立ち半ば占めても·細かく多模様の衣類やカーテン·ややくすみ単色味気ない壁や上部間仕切の包みが全体を浮き出さずにいる。日常と社会の赦さぬ硬さそのものにあくまで人工性なく締め切り、「死自体でなく、死神の宿った」ような一斉一方向への(制限ない複数)目線の、普通に当たり前に存す在り方が、作品を現実の容赦ない転がしに向かわせてる。カメラの移動も若干の廻りめや斜めズレも持つが直線的にフォローを越えて寄り、時にゆったり横(フォロー)へもある。デクパージュの速度は即物的トーンで速くもなく、装飾的に固めたのではなく、空気自体が硬質に揺るがぬ図の、対象へのフィットを越えて、作り手の対象への同化·突き放しを更に超えて、ナチュラルながらやや冷たく硬い。空間の隙間や統一力の欠如は、社会の親しみに向かっても成り切れない自ら作った限界·線引を表している。
 主人公2人もネイティブ·移民を代表した普通の人間の一部でありながら、どこかそこに収まりきらない人間としての矛盾を受けての拡がりを持っている。
 そもそも一方は若い頃はナチス党員の末端、東欧圏の夫を持つも早くに失い、少し言うを憚れる清掃員をし、そこやアパートや近くの店の癖ある人とも永く円満にやり、子らも週末に集まってくれる。一方はモロッコのここドイツより家族一体主義が行き渡ってたベースを持つも、ここには馴染めず、店や音楽を限定し、一部屋6人で住み、仕事では主人と奴隷的な線を拭えないでいる。しかし、共に規則正しく、また忙しなくやってて、只、「仕事、1人、孤独」を自然に痛切に意識外で感じてる。雨宿りに入ったアラブ人対象の店で2人は知り合い、白人の店主側でも動かせない、線引を互いの経験と生来の人としてのゆとりが、相手の囲いを否定し自分側の余裕に引き付けてく。家族の冷たさを否定し、偉いのは寧ろアラブ人ではとか·狭すぎるとか当たり前に言う、土壌を持つ。泊まらせるも、眠れぬ未来や死への道の話から、2人は出来、間借り人は契約違反と家主が言うを結婚する、という流れが一気呵成に。
 直ぐに冷たい、差別·清潔疑う違和感·慣習乱し怖れ·または表に出ぬ(自分の)自由へのやっかみ、がドイツ人側は、周りのどの人間の目にも生まれ、ヒロイらは集いや決め事日常ルールかは外されてく。アラブ人上司に不満な、娘婿以外も、家庭持ち独立してる子供たちも母への怒りを露わに。
 2人は行き詰まる。「二人だけが幸せならいいようなものだが、周りの他者がいて成ってるところも大」。楽観的に、帰ると事態好転もと、やや長期旅してみる2人。果たして偶然の事態重なり、2人は重要視·重宝されて、コミュニティのしっかりした位置を得る、流れ画生まれくる。隣人は息子引越しで荷物を貴女の大きな地下室にと頼みに、息子は都合で子供を暫くと、スーパー進出で大事な常連を失ってはと近くの店、1人が盗癖でクビになり代わりの女の給与の安さ·向こうのやり方に団結して賃上げんと仕事仲間ら。
 しかし、そうした偶然か必然かの安定が出来ると、2人に本来の我儘が自然に出てくる。生活習慣の違いを埋める努力が止まり、行きつけの店の主人の女にクスクスを頼みに行き·そのまま家を空けたりも増す。互いにまた近づこうとするも、民族様式の違い、取分け20の年齢の差が壁として揺るがず、周囲からも厳然と示されてくる。二人の頑なさとそれを打ち破る初心は、出会いの店でのダンスで、不意にしかし自然により強く甦る。しかし、急に倒れ只ならぬ異常な硬直に見舞われる男。この地のストレス溜まっての、慎重を要する胃潰瘍と診察される·入院へ。
 この終盤、倒れた後の様子が大きな鏡に写る。それまでの見事に汎ゆる慣れを超えた、現実を独特に圧縮し、その多面性·抗し得ない狭い風潮の支配、それはしかし有利なものが置き換わっていつの間にか方向が変わり、思った程の根はないが、その時々で些細なデリケートな「幸せ」やその欠如を、表面的一般的な薄っぺらい逆の大勢が飲み尽くさんとし、強さを自覚·意見したり、不和を·見せぬ中で拡げたりするもの、それを歪めずに侭組入れ·咀嚼も退いてし得る、展開や構図組みや構図内主張の、個人内部浸りをこえた独自に歩む立体感(予感)·一般映画活力。それを、ほぼ初めて斜めから見たもので、模範的·理解スムース的でやや例外的本編を客観視もしてる。よって本作は、苦く虚しくでも、着実足踏み直し(歳や人種を越え、流れとはいえ、嘗てのヒトラー寄りや外人前夫に殆ど負い目もたない、独自からの真の力)に完全浸ってない、美や感動·感傷をを超えた確度に至る。
 一般的にも最も力と素直さを持ち、最も確かに認知されたファスビンダー作品か。
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