しょうた

肉体の悪魔のしょうたのレビュー・感想・評価

肉体の悪魔(1986年製作の映画)
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劇場ロビーに掲示の解説が目を引いた。
ベロッキオは80年代、精神科医のマッシモ・ファジョーリと出会い、作風が精神分析の影響を受ける、と。
なるほど、アンドレアの父親は精神分析家であり、診察室にカウチが設えられている。当時のイタリアの精神科医療の実態を反映しているとしたら興味深い。考えれば、イタリアは精神科病院を廃止して間もない頃であり、外来診療の少なくとも一部で精神分析が行われていたということだろうか。
一年ぶりに受診したジュリアをカウチに横にならせ、アンドレアの父は後方から語りかける。この部屋には何もないと想像してほしい。世界を変えることはできない。精神分析は世界への適応が最善となるように促す、と。だが、ジュリアは黙って部屋を出ていく。何も説明はされない彼女が望んだのは、少なくとも「適応」ではないだろう。
いくつかのシーンでジュリアの表情を長回しで見せながら音楽(ヴァイオリンやピアノの)が流れるのが不思議な印象を残す。ラスト、アンドレアの口頭試問を聞きながら涙を流すところもそう。精神分析は言葉を手掛かりに心を手探りする営みだろうか。だが、無言の表情や豊かな肢体はそれ自体で論理を越えたその人(の心)を語っているのかもしれない。
追記>
精神分析の影響が見られる要素。
ジュリアがアンドレアの男根をハサミで切る妄想(愛のコリーダか…)は、フロイドのいう男根コンプレックスを思わせる。
ジュリアがアンドレアの夢の内容にこだわるところ。
父と息子が一人の女(母親)と性愛関係にあることが示唆されるところはエディクスコンプレックスを思わせる。
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