Foufou

愛、アムールのFoufouのネタバレレビュー・内容・結末

愛、アムール(2012年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

もう少し若い時分に観ていたら、老老介護の現実を扱った社会派映画として消費したかもしれない。しかし不惑を越えれば誰しも老いを意識するし、親が存命なら彼らは主人公たちの年齢と大差ない。久しくクリーニングに出していない礼服のことが夜更けにふと気になったりする。

来るべき終焉に向けて、構える契機となる映画である。少なくとも欧米はそのように反応し、こぞってこの映画に賞を与えた。まるでそうすることで何かを封じることができると信じるかのように。あるいは世界のほつれを隠蔽できるとでも信じるかのように。あの受賞の夥しい数こそは、欧米の知識人たちの動揺の表れであり、もしくはやましさの表れだろう。

パリ中心街の高級アパルトマンが舞台。老夫婦は引退したピアノ教師で、国を跨いで活躍する新進気鋭の弟子がいる。娘夫婦は夫の浮気で切った張ったを繰り返しているが、どうにかロンドンで家を構えている。孫たちも少なからず音楽に携わっているらしい。ヨーロッパの典型的なブルジョワ。とまれ、ままならぬ懐事情を人事不詳の母に娘が打ち明ける場面があるから、鴨の足掻きが透けて見える。

冒頭、シャンゼリゼ劇場でピアノリサイタルが始まろうとしている。舞台側に固定されたカメラは客席側に向けられ、わらわらと集まる観客たちを長々と映している。鏡像に向かい合うような居心地の悪さがあって、なるほど、これから私たちは私たち自身の物語を観ることになるわけだ、と知る。いかにもハネケらしい演出。

無理に医者に診せ、手術まで受けさせた結果妻が半身不随になって戻ってきたことへの夫の罪悪感。妻は妻で夫をなじる気持ちもなくはないだろう。だからこそ二度と病院に連れていくなと妻は夫に約束させる。家を離れたくないからとか、夫から離れたくないから、という感傷的な演出は、そもそもの始まりから奪われている。この点において、老夫婦の甘やかな愛の絆をこの映画に見ようとする者は、最後までお預けを食らわされることになるだろう。やはりハネケの amour は逆説的であり、一筋縄ではいかない。

妻の容態は悪化する一方で、看護師二人体制でなければ回らなくなってきて、二人目を雇うも、これがケン・ローチの映画から連れてきたようなお育ちのよろしくない悪看護師で、妻になかなか凄いことをするし、解雇を言い渡す夫とこの看護師の対決は、DQNとは距離を置こうでは済まされない、暗鬱とさせられるものがある。本邦でも、こちらは距離を置いているつもりが、突然追いかけてきて高速道路で停車させられかねないのだ。

娘が父を非難する。この状態が最善か、と。涙ながらに Parlez sérieusement avec moi ! と詰め寄るが、よし、それなら真剣に話し合おうじゃないか、と父。妻は病院は断固拒絶する。医者も看護師も定期的に手配している。家では私がついている。それでも気に入らないと言うなら、お前が引き取るのか。返されて、カメラが娘を映すことはない。声を拾うこともない。なぜお母さんは最後の最後でわたしを苦しめるの……が娘の本音だろう。罪悪感に発作的に突き動かされながら、それを持て余す現代人のありようが浮き彫りになる。

あの最後の娘の不意の訪れに、夫は動揺して妻の寝室に鍵をかける。父親の異変にこそ娘は動揺し、母親に会わせてほしいと迫る。もしや、と観客は思うわけだが、鍵は開けられて母は寝台に眠っている。ただ、この場面から、来るべきクライマックスが発作的でないことを我々は知らされることになる。

意識の曖昧な妻に向かって、夫は幼少のころの話をする。非常に話のうまい人で、こちらもつい引き込まれてしまう(疎開先に送られる娘に、調子が良ければ「◯」を、悪ければ「×」を書いて毎日送れと父が何枚ものを葉書を託したというエッセイが向田邦子にあったのを思い出す)。老夫婦の間で交わされる話の大半が夫の幼少期のそれというのは、いささか違和感がなくもないが、どうか。ただ、ここにも作話の方向づけはあるはずで、夫にとっての妻が、今や母親と等価となっている印として私は観た。あるいは死にゆく妻に自身の幼少期を託すとは、これ以上ない同化を意味するのかもしれない。

いい日なら便箋の片隅に花の印を、悪い日なら星の印を。振り返れば花の印の多い人生だったかもしれない。しかし老介護の現実は、人生の花模様をすべて星模様に変えかねない危うさを孕んでいる。だから鳩のおとないは、聖霊のおとないと読むのが一つの筋だろう。夫は茫然自失となりながら妻に導かれて部屋を出る。実年齢においても、エマニュエル・リヴァはジャン=ルイ・トランティニャンより三つほど年長。

ドアの隙間をガムテープで目貼りしたのはなぜだろう。自分のためというより、妻のためだったろう。妻があそこまでプライドが高くなければ、事態はだいぶ変わっていたかもしれない。しかし、気難しくなるというのは、何もその人自身の性格からとも限らない。老いは、病いは、人の本質を狂わせかねないのだから。しかし狂ったら狂ったで、私たちはそれも当人としていたわっていかなければならないのである。だからあの目貼りは、妻への最後の気遣いとしてあるのではないか。

誰もいないアパルトマンの部屋に、光が満ちている。娘が立ち寄って、鍵を開け、室内を見渡しながら、そっと居間に腰を下ろす。

イザベル・ユペールとは、ただその存在をもって、あらゆる映画に終止符を打つことのできる、稀有な女優ではないか。
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