くわまんG

愛、アムールのくわまんGのレビュー・感想・評価

愛、アムール(2012年製作の映画)
4.5
介護のシビアな実情を訴える類いではなく、夫婦間のノンバーバルコミュニケーションが極まる瞬間と、その過程を描いた映画でした。さらっとしているようで恐ろしく濃密なので、鑑賞後どんどん考察の余地が生まれてきます。

みどころ:
夫婦生活とは長い会話
静謐で活発な会話劇
迫真の認知症演技
月並みなプロット
からの複雑な後味

あらすじ:
ジョルジュ・ロランは、介護していた妻アンヌを殺害し、自らも命を絶った……。

「お願い。(愛するあなたよどうか)殺して。」
「愛してる(からこそ君を殺す)よ。さようなら。」

何百回と物語に使われているこのくだり。尊厳死的心理と、互いへの全幅の信頼が無ければ成り立たない、クライマックスにうってつけの胸熱シークエンスですよね。でも当然、こんな会話が現実で起こる確率は極めて低いので、たとえフィクション上でも「その状況ならそう思うのも納得」と観客に感じさせるのは難しそう…つまり、適当にこのエピソードを放り込んで盛り上げようとすると「はいはい有り得ねーよ、さめたわ笑」と一蹴されてしまいかねないわけですが、このピットフォールを丁寧に完全回避しているのが、『アムール』の特筆すべき点だと思います。

「お願い殺して」というのは勿論最期の会話ですので、そこに至るまでの対話が十分かつ有意義であればあるほど、「お願い殺して」に説得力が生まれますよね。ロラン夫妻の対話は実に密でした。

コンサートホールからの帰り道、妻が健常であった頃から、この夫婦には阿吽の呼吸があります。互いを知り尽くしているからこそ、つかず離れず無暗にぶつからず、うまく転がし合って均衡を保っています。言葉にせずとも行間から、あるいは目線やしぐさから、大体のことはわかってしまうんですね。わかりたくなくても。

だから妻が半身麻痺になったとき、夫は妻がどう感じているか手に取るようにわかり、妻の方もそういう夫の心の動きを把握していました。二人は自然と、いつも通り均衡を保とうとします。すなわちアンヌは夫のために“前向きに回復に努める妻”を演じ、ジョルジュは妻のために“献身的に介護する夫”を演じます。ところがこの選択が、お互いの首を真綿で締め上げる結果になってしまう。やりきれない局面です。

夫が「こりゃキツい!もう死んどくか?笑」と言えたなら、妻が「あー疲れた!じゃ先逝ってきまーす♪」と言えたならいっそ楽なのに、言えない。いよいよ意思疎通が困難になっても、やっぱり言えない。握った手や食事介助の匙から、伝わってくる互いの本音が聞こえないふりをしてでも、自分の気持ちに蓋をしてでも、とどめの一言が言えない。だって、まだ一緒にいたいから。

この美しく悲しい均衡が崩れる瞬間、本作品最大の見せ場が訪れます。ジョルジュが食べさせようとした嚥下食(誤嚥しないよう形態に工夫された食事。通常ドロドロで見た目も味も美味しいものではない。)をアンヌが意地悪く吐き出し、思わず頬を打ってしまうシーンです。一見、介護でストレス過多になった“夫がつい手を出してしまった”場面ですが、あれは“妻が夫に手を出させた”のではないでしょうか。ビンタをさせることで、互いの心に限界が来ていることに気づかせたのではないでしょうか。
「ね、もういいじゃない。行きましょう。」
「そうだね。じゃあ、あとは任してくれ。」
こうして夫婦は、長い会話を幸せに締めます。

妻は自分のために追い込まれていた夫を苦痛から解放し、夫は妻のために断腸の想いで身支度と戸締まりを済ませ、仲良く二人で“部屋”を出る。あくまで他人である夫婦間において、利他的精神を極めたロラン夫妻は、その一つの完成形と言っていいでしょう。一方、気ままでリーズナブルな元夫との同棲生活を乗りこなしている(気でいる)娘が、対極の(利己的で空虚な)存在として“部屋”に取り残されるのも、強烈な印象を残します。死んでないだけの生より、生きた死を選んだ両親の心を、娘が理解することはないのです。