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野獣死すべしのNMのレビュー・感想・評価

野獣死すべし(1980年製作の映画)
4.3
主人公・伊達は、警官を刺殺し銃を奪う。
そして違法カジノ店を襲い、おびえながらも、数人を確実に撃ち殺して大金を手にして逃げた。

この男は一体何者なのか、徐々にその素性が明かされていく……。

伊達はその後、非常に静かな生活を送る。とは言え昔から無口。
東大出身で、ショパンはじめクラシック音楽好きで、オーディオマニア。
よく本を読み、外出にも数冊携帯する。
通信社の海外支局を退職し、フリーランスで翻訳家をしている。
現在29歳ぐらい。

いつもうつろな眼で、女性と話すときも、旧友と話すときも、その能面のような表情を一切崩さない。
一度だけ、自宅のスピーカの前で恍惚とした表情を見せる。
信じられるのは文字と音楽だけ。

松田は、役作りのために1か月で10kg以上痩せ、奥歯を4本抜いたという。
原作に、主人公・伊達がガリガリであるという設定はなく、松田の判断でしたことらしい。

制作陣からは叱られたようだが、その決断は成功したように思う。
松田はそのままでは若い美男子だが、それ以上に病的なオーラが全身から溢れている。

いるだけで不気味で、どんな時も様子が一定、声も表情も1ミリも動かさないので、こんな人がいたら逆に目立つだろうとは思う。

そういうわけで前半は静かな場面が多いが、その分、後半は一転、鬼気迫る激情を吐露する。

「リップ・ヴァン・ウィンクル」について話すあたりから一気に表情に変化が現れるのは圧巻で、心をがっちり掴まれ釘付けになる。
それまでの静かな雰囲気が一転、最後には伊達の錯乱じみた本性がむき出しになる。
長回しのシーンは、生の舞台で芝居を観ているような緊迫感と、リアリティがある。

このラストだけでは、あの誰もいないコンサートホールの意味や、あのぼやけた男は本当に柏木だったのか、そもそもこれは現実なのか、伊達の想像なのか、など、曖昧なまま。

また、伊達が本当はどんな経緯でこのような人間になったのかなど、詳細は観客がそれぞれ推測することになる。
客に考える余地をあたえる映画は面白い。

そのヒントの一つは、二度朗読される詩にもある。(萩原朔太郎「漂流者の歌」。)
その詩に自分を投影し、共感しているのだろう。

また、キャッチコピーである「青春は屍をこえて」とは、勉学に打ち込んで育った繊細な伊達が、突如、凄惨な環境に送られたために、激しいショックと絶望が育まれてしまったことを示すのかとも思う。

伊達がなぜ「最後の晩餐」の絵を部屋に飾っていたのか、わけがあるのかないのか気になる。
悪魔が悪魔が、とセリフに出るので、神を憎き敵として壁に掛けたのだろうか。よく、復讐相手の写真を壁に貼るのを映画やドラマで見かける。
オープニングで、教会を空撮しているのにも、何か理由があるのだろうか。
キリスト教をモチーフの一つに選んだのはたまたまだろうか。

それからリップ・ヴァン・ウィンクルのモチーフはなぜ作品に出てくるのか。
急に語り出したり、おそらくラストのコンサートホールもそれを意識している。
海外から戻ってくると、伊達は浦島太郎のように世離れしただったのだろうか。

相棒役の鹿賀丈史と、伊達をつけまわす刑事・室田日出男の演技も流石。
この三人の演技が凄いのであとの色々がどうにかなっている、という感もある。

松田優作の、ほかの作品しか観たことのない方は
ぜひ観るべき。
松田への見方が変わることだろう。
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