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愛情は深い海の如くのmanacのネタバレレビュー・内容・結末

愛情は深い海の如く(2011年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

美しいメロディとレトロな映像が味わえる映画。

私は、へスターは過去に愛を知ったことは一度としてなく、この先も未来永劫知ることはない!と結論付けた。
一口に不倫って言っても、『アンナ・カレーニナ』や『マディソン郡の橋』とは全然違う、全く愛のない不倫物語。

へスターは知性と教養を持ち、気丈で我の強い女だった。
とにかく頑固だ。決して自分を曲げない。

姑は確かに多少イジワルだったかもしれないけれど、そこまで底意地悪くは描かれていない。庭を褒められてご機嫌になっていたし、多少ムカつく所があっても利口な女なら少々の我慢と存分な機転を利かせて煽ててればなんとか暮らしていける程度の姑だったと思われる。それをここまで拗らせたのは偏にへスターの頑固さだ。「私は間違っていない!なぜ私が折れないといけないの!」と思っていたに違いない。

フレディへの愛も偽物だ。
ウィリアムとの夫婦生活に愛はない、本当の愛は違うところにあると頑なに信じ、誰へともなくそれを証明したいがために意地になってしがみついていただけだ。
へスターがフレディに惹かれる要素が全くない。フレディは教養も無く、いつまでも過去の栄光にしがみついているだけのダメ男だ。へスターのような固い女が彼みたいな男に惚れるのは、自分の堅苦しい常識を忘れさせてくれて肩の荷を下ろしてくれる部分、これが定番パターンだが、へスターは自分の堅苦しい教養を捨てようとはしなかった。ウィリアムともフレディとも常に自分の教養高さを誇示するような会話しかしていない。
更にヘスターがフレディへ愛情を抱いていない事実を決定づけたのが、フレディの靴を磨くシーン。
フレディは靴をテーブルの上に乗せることを縁起が悪いと思っているが、へスターはそんな迷信どこ吹く風だ。「そうなの?」としれっと言ったっきり靴をテーブルに乗せたまま靴磨きをしている。
実際そんなのただの迷信なのかもしれない。しかし、状況は愛する男との今生の別れの場である。相手の気持ちを慮って合わせるのが優しさじゃないか。
姑や夫にもそうであったように、へスターは合理性で物を考えることは出来ても人の気持ちを推し量って行動することができないのだ。
フレディは靴を磨くヘスターを切なさと諦めの入り混じった顔で見つめている。チャラ男で物事を深く考えないフレディは初めそんなへスターの超リアリストぶりに気が付かず、一緒に暮らし始めて徐々に自分と彼女を隔てている深い溝に気づいてきた。しかし如何せん教養も薄く語彙も少ないフレディ、自分の思いをヘスターに伝えることは出来なかったのだろう。いつも冷静なヘスターに言いくるめられていたに違いない。その度にフレディは己の無教養ぶりを愚弄されているような気分になっただろう。フレディには少ない語彙で子供じみた暴言を大声でがなり立てることしかできなかったのだ。あの切なさと諦めの入り混じった顔は、そんなことを繰り返していた月日が出させた表情なのだ。ヘスターが捨てられても当然だ。チャラ男にだってプライドはあるのだ。

大家さんのセリフ、「愛情とは粗相した後の尻を拭きシーツを替えてあげることよ」、これはなかなか深い名言である。
ヘスターはこれを実行することができるだろう。でもそれは愛情ではない。「私は裕福な家庭を捨てて真実の愛に生きているのよ!」と誰へともなく証明する為だけに彼女の意地がさせている行動だ。靴を磨いたときの様に相手の気持ちを推し量ることなく淡々と行うのだ。
これは相手を傷つけるだけの行為だ。

彼女の愛は誰も幸福にしない。周りの人を不幸にするだけだ。
こういう女がいるから「女に教育なんて無駄だ」なんて男がたくさんいたんだよ、昔は。
確かにヘスターを見ていると中途半端に賢いばっかりに余計なことを考えていらぬ面倒を起こしているようにも見える。
これじゃ男尊女卑な価値観を訴えられても「仰る通りで…」としか言えない。

愛を知らず信念だけを持っていたヘスター。
愛がなければ信念も無ければよかったのに。
フレディはこれからアメリカで新しい人生を歩み立ち直れるだろうけれど、人を愛することができないのに頑なに愛を妄信するヘスターは生涯不幸のままだ。
自分の努力が全力で空回りしていることに気づかず、必死に愛を証明しようと邁進している。
ここ最近で観た映画の中でも最も哀れな女だ。泣ける。
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