サディズムとマゾヒズム。支配する側と隷属する側。
『毛皮のヴィーナス』ではマゾヒズムがテーマとして扱われている。というのも、本作は1871年のザッヘル=マゾッホによる小説『毛皮を着たヴィーナス』を下敷きにして制作されているからだ。
マゾッホ→マゾ→マゾヒズムということで、隷属する側の心理状態がありありと描写されている。だから、マゾヒストの方は主人公に共感しながらゾクゾクできるだろうし、サディストの方は隷属する主人公の様子を眺めてゾクゾクすることができるだろう笑
二人しか登場しない映画で主人公をどちらか決めるのもどうかとは思うが、一応、僕が共感できた方であるトマ(マチュー・アマルリック)を主人公にしておきたい。
トマは舞台の演出家。トマが執筆している演劇「毛皮のヴィーナス」の主演女優のオーディションが終了したところから物語は始まる。
「バカ女ばっかりだった!」オーディションの成果に落ち込み、劇場に一人残ったトマのところに、一人の女(エマニュエル・セニエ)がやってくる。「今からオーディションしてよ。」
彼女の名前はワンダ。奇しくも役名と同じ名前である。常識なしで教養もなさそうな話し方をするため、トマは彼女に帰ってくれと頼むのだが、舞台で彼女が演技を始めると、ワンダを完璧に演じるのであった。ここから、トマとワンダの二人だけの舞台が始まる。
特筆すべきは二人の演技力だ。映画の中で、さらに演劇の役を演じるので、二人とも一人二役をしている状態なのである。
マチューはトマ(脚本家)とセヴェリン(演劇の役名、隷属側)を演じ、エマニュエルはワンダ(女優)とワンダ(演劇の役名、支配側)を演じている。そして二人ともこれらを完璧に演じ分けることかできている。
しかし、この映画は役を演じ分けているだけの物語ではない。脚本家トマと役柄セヴェリンの人格は徐々に重なっていき、トマの心に眠る隷属欲が段々と呼び起こされてくる。一方、ワンダもセヴェリンを支配する演技をするだけでなく、脚本家としてのトマさえも支配していくようになる。
オーディションとして始まった演技は、いつしか虚構と現実と繋いでしまい。実際の二人の関係性、いや上位関係さえも変化していく。
僕としてはそうやって、二人の支配と隷属による愛がずっと続けばいいのになと思ってしまう。(そう書いたのはネタバレと関係ある)
Sなあの人でもMなあの人でもこの作品は楽しめるだろう。マチュー・アマルリックの戸惑いながらも懇願する演技を是非堪能してほしい。